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月の砂漠のかぐや姫 第193話

「はあっ、はあっ、ああ、ああ・・・・・・」
 一気に砂丘を駆けあがってきたせいで、その頂点に立った時には、羽磋の胸は破裂しそうに傷んでいて、彼はオアシスを見下ろしたままで動けなくなってしまいました。座り込んでしまいたいという身体からの欲求を押さえるのが精いっぱいで、とても、このまま砂丘を駆け降りることはできません。
「早く、あのオアシスに行きたい。そして、あの人に会いたいのに・・・・・・」
 羽磋は背中を大きく上下させて荒い息をしながらも、どうにか座り込みはせずに、遠目でオアシスを見下ろしました。すると、羽磋の視界の中で小さな人影が動きました。離れたところから眺める羽磋には黒い小さな影としてしか判別できないそれは、オアシスの水辺で何かをしているようでした。
 遮るものが何もない砂漠の中で、小さな砂丘の頂に立つ羽磋。その頬にオアシスの上を通り抜けた風がふわりと当たりました。その風は、涼気と共に歌声も運んできてくれました。先ほどまでよりもはっきりと聞こえるそれは、優しく軽やかに響く少女の声でした。
「どうか その静かな心。どうか その清らかな魂・・・・・・」
 やっぱりそうだっ、というしびれるような思いが、羽磋の頭から足へと駆け抜けました。ぶるぶるぶるっ。風に乗って運ばれてきた少女の声が、疲れた羽磋の身体に活力を与えてくれたようでした。
 羽磋は、再び駆けだしました。オアシスに向かって。砂丘の斜面を。足を取る柔らかな砂の下り坂を。早く早くという強い思いが、彼の背中を押し続けます。足よりも上体の方がどんどんと前方へと傾斜します。身体よりも心が先走っているのです。
「うわっ」
 とうとう、羽磋は砂丘の下り斜面に頭から倒れ込んでしまいました。身体についていた勢いは止まらず、砂粒を弾き飛ばしゴロンゴロンと回転しながら、斜面を転がり落ちていきます。それは、身体が軽いことで周囲から「羽」と呼ばれていた彼の日頃を知る者がこの場に居たら、「あれは本当に羽なのか」と二度見するような、不格好な転倒でした。
 小さな砂丘の斜面を砂だらけになりながら転がり落ちた羽磋は、ベッと口の中に入った砂を吐き出すと、身体についた砂はそのままにして立ち上がるやいなや、またオアシスに向かって駆けだしました。その間もずっと、砂漠には少女の歌う唄が流れ続けていました。

  月から来て水と一つになった貴方 
  同じく月から来た兄弟があいさつを送る
  どうか その静かな心
  どうか その清らかな魂 に免じ
  あなたの兄弟に 恵みを分け与えてください
  月から来て水と一つとなった貴方 
  羊や牛を追うことを選んだ兄弟が感謝の唄を捧げる

  月から来て水と一つになった貴方 
  同じく月から来た兄弟があいさつを送る
  どうか その静かな心
  どうか その清らかな魂 に免じ
  あなたの兄弟に 恵みを分け与えてください
  月から来て水と一つとなった貴方 
  羊や牛を追うことを選んだ兄弟が感謝の唄を捧げる


「・・・・・・や、輝夜っ!」
 羽磋の口から、あの少女の名が叫ばれました。
 彼の耳に届くこの唄は、彼ら貴霜(クシャン)族が水汲みの際に精霊に捧げる感謝の唄。そして、聞き覚えのある優しいこの声は、彼が輝夜という名を贈った、讃岐村の貴霜族の月の巫女、竹姫のものに違いありませんでした。
 竹姫、いいえ、羽磋が贈った輝夜という名で呼ぶことにしましょう、輝夜姫の乳兄弟として育ち、彼女のことを心から大切に思うようになった羽磋が、その声を聴き間違えるはずなどないのです。
「輝夜、輝夜っ。ごめん、ごめんよっ」
 羽磋は、オアシスに向って走りながら、自分の想いを叫んでいました。それは、あの宿営地を出たときからずっと、輝夜姫に伝えたい言葉として羽磋の心の中に存在し続けてきた言葉でした。本当はオアシスに辿り着いてから、彼女に面と向かって伝えるべき言葉なのでしょうが、もうその言葉が胸の中から出て行こうとするのを、羽磋にはどうにも抑えることができなくなっていたのでした
 御門の目を欺くため直ぐに出発しろという大伴の指示に従って、羽磋は放牧の見回りから直接この旅に出てしまいました。でも、本当は一度宿営地に戻って、輝夜姫に謝りたかったのです。あんなひどい事を言うつもりはなかったんだって。自分が心を込めて贈った名前、二人だけの秘密を輝夜姫が忘れてしまっていて、それが寂しくて辛くて、つい、意地悪を言ってしまっただけなんだって。だけど、大伴から話を聞いて、それは輝夜姫が自分を守るために月の巫女の力を使ったからだとわかった。いや、たとえ、そうでなかったとしても、今でも自分の思いは変わらない。自分の夢は、輝夜姫とずっと一緒にいて、この広い世界を見て回ることだって。自分は、輝夜姫のことを心から・・・・・・。
「輝夜ぁーっ!」
 オアシスの人影に向かって、羽磋は一際大きく叫びました。
 すると、その声の響きがオアシスにまで届いたのか、繰り返し歌われていた水汲みの感謝の唄がピタリと止みました。そうです、きっと、羽磋の声が、唄を歌っていた少女の耳に届いたに違いありません。
 一方で、あまりに力を込めて叫びすぎたせいか、羽磋はまたもや体勢を崩してしまい、勢いよく顔から砂の上に滑り込んでしまいました。




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