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月の砂漠のかぐや姫 第75話

「どういうことですか・・・・・・」

 全く予想もしていなかった寒山の行動に、王柔は大きく戸惑っていました。先程まで寒山は、少女を休ませてやってほしいという王柔の願いを、考慮するそぶりすら見せていませんでした。その寒山が、どうして彼女を連から解き放つような行動を、起こしたのでしょうか。
 説明を求めるように自分の顔を見つめている王柔には何の注意も払わずに、少女から切り離した奴隷たちや、周りを取り囲んでいる交易隊の者に向って、寒山は大きな声を発しました。

「風粟の病だ。この女は風粟の病に罹っているっ。病に罹ったことのない者は速やかに離れろ!」

 寒山の言葉を聞いた者たちの顔には、意外な言葉を聞いたとでも言うかのように、一様にぽかんとした表情が現われました。その後、彼らは大きく二つに分かれました。それは、心からの安堵の表情を見せた者と、心から怯えた表情を見せた者の二つにでした。

「よかった、俺はガキのころ、あの病に罹ったことがあるんだ」
「ええっ。あの病だって? 冗談じゃない、俺は罹ったことがないんだ、こらっ、もっとあの子から離れるんだ、おいっ歩いてくれ、お前が止まっていると、同じ連の俺も動けないじゃないかっ」
「俺は罹ったことがあるが、あの時は本当に死ぬかと思ったぜ、お前は?」
「いや、俺はないんだよ。おい、ちょっとここを離れるから、しばらく駱駝の面倒を見てくれるか」
「ああ。おい、あいつのこんな近くには、とてもいられない。まずは少し離れようぜっ」

 奴隷も交易隊員も、自分たちの事やお互いの事を話し合いながら、少しずつ、あるいは、あわてて、寒山たちから距離を取り始めました。
 そのため、わずかな時が過ぎたあとには、奴隷の少女の周りには、寒山と王柔のみが残されることとなっていました。

「風粟の病? 風粟の病と、隊長殿は言ったのか?」

 もちろん、寒山が皆に投げた言葉は、王柔にも届いていました。
 風粟の病、その言葉は、王柔にとっては惨劇を思い起こさせる、魔の言葉でした。そして、多くの奴隷や交易隊員にとっても、それは恐怖の言葉でありました。彼らが急いでこの場を離れてしまったのも、あながち、病気が伝染することを恐れてのことだけではありませんでした。
 その言葉は、月の民を始めとする遊牧民族にとっては、口にするたびに恐ろしい死の世界が目に浮かんでくる程の恐怖の象徴であって、寒山が風粟の病に罹っていると話した奴隷の少女からできるだけ離れていたいと、誰もが心の底から動かされたのでした。
 気の弱い王柔のことですから、これが彼女のことでなければ、真偽のいずれかを確かめる前に、「その恐れがある」というだけで、この場所から離れていたことでしょう。でも、今はそのような気持ちは起きませんでした。

「風粟の病? あの、自分の部族を壊滅に追い込んだあの病に、彼女が罹っているのだと?」 

 それよりも、彼女の身体を心配するこのような気持ちが王柔の心を占めていて、寒山が言ったことが本当なのか、確かめずにはいられないのでした。

「いま、何とおっしゃったのですか。隊長殿、彼女が、あの病に罹っているというのは、本当なのですか?」

 寒山は、今初めて気づいたとでも言うかのように、王柔の方に注意を向けました。

「ああ、間違いない。ところで、お主は良いのか? わしはこのとおり、あの病は経験しているが」

 そう言いながら、豊かなあごひげを持ち上げた寒山の喉元には、幾つかの痘痕(あばた)が見られました。
 これは、風粟の病に罹った者に見られる病の痕跡なのでした。風粟の病は、風のように広がり、これに罹った者は高い確率で命を落とす恐ろしい病でしたが、一度罹って回復した者は二度と罹らないという、不思議な特徴を持っていました。それゆえに、この病のことを「悪霊の確認」と呼び、この病の痕跡のことを「確認済みの印」と呼ぶ者もあるのでした。
 王柔も、あの惨劇の際にこの病気に罹りはしましたが、幸い回復をしていました。その時の痘痕(あばた)が、彼の場合は後ろ髪の下に残っていました。髪を持ち上げてそれを寒山に示しながら、王柔は彼女の方へ近づこうとしました。

「僕はこのとおり、あの病を経験していますから大丈夫です。隊長殿、この子のどこに、あの病の兆候があるというのですか」
「わからんか、その奴隷の顔に、ほら」
「顔に・・・・・・、ああっいつの間に・・・・・・」

 下を向いて荒い息をしている彼女の顔を確認しようと、王柔は彼女の横にしゃがみ込みました。彼の目に映ったのは、彼女の頬や額に現れている、あの病の兆候でした。ああ、忌まわしい赤い発疹が、悪霊の確認の標が、彼女の顔中に現れているのでした。

「そんな、気が付かなかった・・・・・・」

 風粟の病は、発熱などの兆候が出たあと、一度症状は治まります。そして、その後に再び、身体の中で悪霊が動き出すのです。この者が生きるに値するのか、確認のためにです。その確認に対する身体の反応が、赤い発疹となって皮膚に現れ、ときにはそれが水疱となり、酷い時には膿を貯めるほどにまで悪化するのでした。
 この赤い発疹が現われると同時に、再度高い熱や呼吸器の不全などの症状が出始めます。この最もつらい症状が数日間続いた後、悪霊が生きるに値すると認めた者は快方に向かうのですが、それでも、身体の一部には発疹や水疱の後が残るのでした。それが、確認済の印と言われる痘痕(あばた)でした。一方で、悪霊が認めなかった者や、その確認に身体が耐えられなかった者は・・・・・・。

「おい、大丈夫か、理亜。しっかりしろ、死ぬんじゃないぞ!」

 王柔は、寒山の前であることも忘れたのか、奴隷の少女の肩を抱き、混濁している彼女の意識に伝わるようにと、願いを込めて叫びました。


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