サイバー・ビジネスモデル
ノーバート・ウィーナーはアメリカの海軍から依頼されて、空中を予期せぬタイミングで旋回する零戦を撃ち落とすアルゴリズムを作成することになった。このアルゴリズムは一部実用化されたものの、日の目を見ないまま終戦を迎える。しかしこの研究は、その後に続くサイバネティクスの出発点となった。ウィーナーはこのアルゴリズムに、今までの科学のパラダイムでは扱いきれないものを発見する。
同じ速度で、同じ方向に進む飛行機を撃ち落とすことは、難しくない。距離と方向は簡単に予測することができるだろう。しかし、そこに予期せぬ旋回という要素が入った瞬間に、自体は複雑化する。しかもその旋回は、そのうちあなたの砲撃のパターンを認識し、それを折り込みながら行われる。
この事態を複雑にしているのは、フィードバック機構である。あなたの動きを相手が予測し、相手が予測していることを想定してあなたが動き、さらにあなたが自分が予測していることを想定して予測していることを想定して、うごく。裏の裏の裏の裏……をかく二重三重の読み合いのなかで、予想がつかなくなるのである。
これまでの科学は、ウィーナーが言うには、天文学であった。何万年後、何百万年後、ときには億年単位で予測可能な世界。しかし零戦はそうした科学では対処できなかった。ウィーナーはそれを気象学に例えた。気象は(スーパーコンピュータが発展した現代においても)予測困難だ。なぜなら気象もまた、フィードバックの重なり合いで複雑化するからだ。
太平洋からの湿った空気が入り込むことで大雨がふり、大雨が降ることによって気温が下がり、低気圧の進路が変化する。複雑にフィードバックし合う関係性の中で、明日の天気はまだしも、1か月後の天気はまったくわからない。「ブラジルの蝶の羽ばたきはテキサスにトルネードを起こすか」という有名な複雑系論文のタイトルを思い起こさせる。
この着想は、操舵手を意味するギリシア語からサイバネティクスと名付けられた。これにより、天文学的なパラダイムで動いていた機械工学に対して、複雑な気象学のパラダイム、たとえば生物による制御までを包含して取り扱えるようになった。そしてこれは、デカルトの心身二元論を克服しようとする取り組みにつながっていく。
デカルトにとって身体とは機械であった。精神は身体を超越するものとして設定された。デカルトにとって動物は、精神を持たない存在で、だから痛みも感じないと考えた。今の動物愛護団体が聞いたら卒倒するような前提だが、デカルトの時代には自然な考え方であった。その背景には、人間を頂点とするキリスト教の世界観が色濃く影響していた。
しかしそうした自然観は、当然限界がある。サイバネティクスはデカルトの限界を超えるために援用された。環境との相互フィードバックよって制御されるという意味で同じ地平に並べられた機械と生物は、いずれもその自己の範囲を曖昧にしていく。「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの格率は、しかしその「我思う」の根拠がまわりの環境−身体を通じて感じ取られる−に依存し、いわば大きなシステムの中の一部として動いている前提に立つと、とたんにその寄って立つ基盤を失う。
自己のゆらぎ。ギブスンは脳と機械が電子的に統合された世界を、サイバネティクスから着想し、「サイバースペース(電脳空間)」と名付けた。この世界観は『マトリクス』にも連綿と引き継がれており、私たちにとって馴染みのあるものとなっている。身体と電子的表現を統合するPerfumeのパフォーマンスを例に上げてもよい。
こうした環境と主体とのダイナミックなインタラクション、そして境界が失われて互いに滲み出していくイメージは、その後、第三のシステム論であるオートポイエシスなどに引き継がれていく。インプットもアウトプットもなく、境界が自己決定されていくという、従来のシステム論ではまったく手に負えないアイデアは、サイバネティクスを起点に考えれば、当然の帰着であった。
さて、こうした文脈において、ビジネスモデルという概念はどのように位置づけられるのだろうか。現在、ビジネスモデルという議論において、たとえば「ビジネスモデルの中の要素は、自己決定できるもので構成されている」という言われ方をする。決定できないものは外部要因であるというのだ。しかし、これは素朴すぎる。人一人採用するにも、〈外部〉から採用せざるをえない。価値提案を設計するにも、競合他社という〈外部〉とのつばぜり合いが影響する。サイバネティクス的なビジネスモデルの捉え方、オートポイエシス的なビジネスモデルの捉え方が必要ではないか。
と、とりあえず、問題意識をメモしておこう。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授