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故郷と旅のあいだ。五島列島 見つめる旅 (1809)

五島列島、見つめる旅。大人の旅。旅程を詰め込んで、観光地をただスタンプラリーすることはない。感じること、語らうこと、交流することを大切にした旅だ。20代から50代、12人の大人が集まり、五島の地で5日間を過ごした。

約半年前、Ploom shop銀座B1ギャラリースペースで、五島の魅力を伝えるフォトブック「毎日が絶景」の展示会を行った。五島列島とはその時からの縁だ。ギャラリー開催中、五島に住む写真家の人が銀座に来た。訥々とした話ぶりだが、本質にしか触れない。芸術家で、澄んだ目をした彼を、魅力的に感じた。彼の写真は、彼の生き方が滲んでいるように見えた。心が洗われるような景観もさることながら、彼の佇まいを育んだ五島の地に興味を持った。「近々、五島に絶対行きますね」。半年近く経ってしまったけど、自分の中ではその小さな約束を果たすための旅でもあった。

「見つめる旅」と銘打っているが、何を「見つめるのか」。五島の地で自分は何を感じたのか。思いつくままに書いてみることにする。もちろん、初めて来た五島の地。だが、不思議なことに、故郷に帰ってきたような感覚になった。ただ自分には、故郷を呼べるような土地は、実はない。いわゆる田舎で過ごしたこともなく、ずっと都市で住んできた。その自分が「故郷」のように感じた場所、五島。どういう心理なのか。

何かを「見つめる」ことは、自分の心を「見つめる」ことに等しいと思う。「見る」という行為は知覚的で無自覚なものだが、「見つめる」には意思が宿っている。何か、思い入ることがあるから見続ける。その時、大抵は心が動いている。五島の景観ー神秘的な入り江、透き通る海、陸と一体化した空、素朴に生きる人、入り組んだ宗教etcーを見つめ、長い時間をかけて象られてきた自分たちのやり方に疑問を持った。


ーよりよき未来のために、今を生きることー
ー時間を体系化して、日々の生活を縛ることー
ー生きるために食べるのではなく、食べるために食べることー

何か一つのエピソードがあったから、疑問を持ったのではない。もしかすると、疑問と呼ぶには小さすぎる波紋かもしれない。ただ、いつもの自分のやり方、自分を取り巻く普通のやり方、が絶対ではないこと。そして、それに違和感を持つことができること。五島の本質は、来るものに「内省を促す」点にあると、強く感じた。


内省を行うためには「疑うことと落ち着くこと」が必要だ。五島にはそれがある。雄大すぎる自然は、自分の小ささを否応なく問うてくる。自分が大いなる何かの一部であることを思い出させてくれる。島を歩く心に垣根を持たない人々は、自分たちを受け入れてくれる。小難しい顔をして拒絶をする、都会の空気はそこにはない。違うことは、いいことだ。無意識の前提を疑うことができる。そして、それを受け容れた時、自分との対話を始めることができる。成熟した静寂の時間だ。

故郷。帰る場所であり、承認の場。自分だけではなく、故郷がない人も多い。帰る場所、ここに戻れば、自分が自分でいられる場所。そういう場所が、人間には必要だ。本当の生まれ故郷でなくてもいい。疑似的でもいいから、そう思える場所が必要だと思う。

五島のポテンシャルは「誰の故郷でもあれること。そして、帰ってくる者に生き方を問うこと」にあると感じる。景観を「見つめる」ことで、自分を「見つめる」。そういう機会が五島にはある。変わらないで欲しい。発展はして欲しいが、本質はぶらさないで欲しい。過去に生きるのではなく、今に生き続けて、未来を作って欲しい。

一五島ファン、そしてここを故郷のように感じた一人の人間として。


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