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マチネの終わりに2


先ほどネトフリで主演福山&石田によるマチネの終わりに、を観た。

原作を読んでからの映像だった上に、ところどころ違う感じにはなっていたけども、想像した通りの薪野と洋子だったのは内心驚きだった。

原作では三谷早苗の行動は洋子によって読み取られたハズだったが、こちらは早苗が暴露する形で両名に真実が打ち明けられていた。それでも原作で受けた「いたしかたない」というやるせない印象のままに、よく言って受け入れる、悪く言えば諦めるというようなニュアンスを感じられたのは興味深かった。

原作を読んでいるときはその時の薪野と洋子の心理を読み解くべくこの二人の描写にとても関心があったが(というかそこがメインのように感じられた)、映像ではなぜか早苗の方が印象に残った。

どうしてあの場で打ち明けたのか、はたして本当にそれは薪野のためとなったのか、いろいろ巻き込んでの数年を経て今、好きにして構わないと伝えることの無責任さと全体的なやるせなさ。

なんだろう、、子どもがいて、家庭があって。どうしても、罪をひっそりと一人抱え続けることの重みに耐えられなかったのでは、と思えてならない。どうにもならない状況を作ってからのお好きにどうぞほど、無責任なことはないよ、と落胆させられる。しかしそうまでしても「幸せだ」と言い張り、薪野がすべてだとまっすぐに口にできる当人の薪野への思い入れの深さには感服だった。私には、そこまで思い入れることは到底できないと感じてしまう。だがこれを愛と呼んでいいのか、ちょっとわからない。。

書籍では最後、公演には来ないでほしいと言った早苗。洋子が手に入れたチケットをお金を渡して買い取った。洋子はすべてを聞いたうえで本人が幸せなのかと問うたのちチケットを置いたまま代金は受け取らず席を立った(たしか…)その時は何か一貫して見えたものが、どうにも映像ではそれが見えなかった。うまく言葉にできないのが悔やまれる・・


セントラルパークで再び会った二人はその後どうしただろう。再びこの疑問がわいてくる。今日の演奏は素晴らしかった、ありがとう、なんて他愛もない会話で始まるのだろうか。

そして、当たり障りのない会話をして、帰っていくのだろうか、互いの日常に。


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