見出し画像

コメディあるいは…


中央芝生で

 中央芝生の縁で寝転んでいた常二は、時計台の上に広がる青空と雲の群れを眺めていた。
二回生に進級して、近づくゴールデンウィークをどんなアルバイトをしてしのごうかと思案をしているのである。
故郷の母が営む商売が不調で、毎月の仕送りが送れなくなったとの連絡を数日前、母からの電話で聞いたところである。
もともと母子家庭で、裕福でない上に、一浪して受験した国立大学がまさかの不合格になり、今の私立大学にやっと滑り込めたのだ。進学を諦めようとした常二を母が説得し、入学したものの、関西の大学の中では、学生が派手に遊ぶと評判の学校だったため、常二は大学にあまりなじめずに通っていた。


常二は音楽と文学が好きだった。入学して何人かの友人はできたが、遊び歩くこともせず、下宿や時計台の図書館に籠もって本を読むか、好きな音楽を聴くかの地味な生活を送っている。


六甲連山の方向に雲が流れてゆく。緑が強い山を背景にして時計台の白色が浮かび上がる。
心地よい風が顔を吹き抜ける。眠りに落ちそうになったとき、常二のすぐそばに二人の女子学生が腰を下ろした。
「ちょっと近すぎるのでは」いぶかしく思って、目を細めに開けて女二人連れを盗み見した。
長い髪の方は、色の薄いデニムに、長袖の白シャツ、紺色のトートバッグ。ショートの方は、黒のワイドパンツに胸元が大きく開いたロングTシャツ。二人ともしゃれて見えた。私学なので、付属の中高から上がってくる学生は裕福でおしゃれな学生が多かった。


見ていないふりで、こっそりと二人の女性を見ていると、何かのライブに行く相談をしているようだ。時折、常二の知っている神戸のライブハウスの名前が聞き取れた。
「美人だから彼とでも聞きに行くんだろうな」ぼんやり考えていると、長い髪の方が空けた飲み物が派手に吹き出して、常二の顔面に降りかかった。


「うわっ、ごめんなさい」あわててバッグからハンカチを取り出した女は、顔を押さえている常二の手を払って常二の顔面にハンカチを当てて拭きだした。
「いやっ、大丈夫です」と断ると、
「ごめんなさい、ほんと。こんなに飛び散るなんて」すまなそうに眉尻を下げて謝る。
こんなに無防備な女子の顔を見たことがないと思って、常二はあらためて女の顔を見た。


「いいですよ、服も濡れてないから」常二が言うと、
少し安心した様子で、「おどろいたでしょう」と上目で笑う。
つられて常二も笑ったが、少し引きつって見えたかも知れない。きれいな女をこっそり見ようという下心に、文字通り冷や水をかけられた格好である。


「文学部?」
「そう」
「何回生?」
「二回生」
「じゃあおんなじだ」ショートの女と顔を見合わせてほほえむ。


こんな美人と話せただけでも儲けものだと思いながら、立ち上がると、長い髪が、お詫びにこれどうぞと言って手を差し出したので、常二もつられて右手を出すと、アメが二個載せられていた。


「アメちゃん、大阪のおばちゃんやん」常二がつぶやくと、
「うちの気持ちやから、食べてね」と言った。


授業で再会

常二は、珍しく一限の授業に間に合って、大講義室のいちばん後ろで入り口のそばの席に座り、ノートを開く。
美学概論の先生は、小説の一節を読み上げた。


「山崎は山城の国乙訓郡にあって水無瀬の宮跡は摂津の国三島郡にある。されば大阪の方からゆくと新京阪の大山崎でおりて逆に引きかえしてそのおみやのあとへつくまでのあいだにくにざかいをこすことになる。わたしはやまざきというところは省線の駅の附近をなにかのおりにぶらついたことがあるだけでこのさいごくかいどうを西へあるいてみるのは始めてなのである。」
「さあ、この小説の題名がわかる人はいますか?」と言って、数百名の学生たちに視線を向けた。誰も手を挙げなかった。
常二は以前に読んだ、谷崎潤一郎の「蘆刈」だとすぐに気づいたが、手を挙げない。


「省線というのは、」先生の話に身を乗り出したとき、後ろのドアが勢いよく開いて、一人の女子学生が入ってきた。常二の横が空いているのを目にすると、「すみません」といいながら下げた顔にかかる長い黒髪を掻き上げた。
二重のはっきりした目と白い歯で、中央芝生で出会った女だとすぐにわかった。
女は、常二が席を立って、跳ね上げ式の座面を立てるのを待っている。そうしないと奥の席に入れないのだ。


「あれ、あの時の」女は常二の顔を見て、大きく目を見開いた。
「アメちゃんくれたひとやね」常二が言うと、
「あの時はほんとうにごめんなさい」と申し訳なさそうに言う。
「ちゃんと食べてくれた」
「ああ、食べました」
「そう、ありがとう」と言って、常二の目を見つめる。
なんてかわいい人なんだと改めて常二は思いながら、やや緊張した。


常二の前をすり抜け、すぐ隣に鞄を置く。上等の革のバッグだ。黒のワンピースも長い黒髪と合っていて、大人びた感じを与える。


「これ取ってたの」と女が聞くので、
「出るのは今日が初めて」と常二は女にささやいた。


常二は前を向き、先生の話に注意を向けようとした。しかし、横に女が座っているのが気になって、話がさっぱり頭に入ってこない。
十分ほど、そんな状態が続いていると、女が自分のノートの端に「お名前教えて」と書いて常二に見せた。
なんでと内心思いながら、「賀集常二」(かしゅうつねじ)と名前をシャープペンで書くと、女も「阪上美彌」(さかうえみや)ときれいな字で書いて見せた。


講義が終わると、次の時間は空いてるかと聞く美彌に、出席が厳しい授業が入っていると答えると、「じゃあ、またね」と言って手を振って講義室から出て行った。


その後ろ姿を見送りながら、後ろ姿もきれいな人だなと思った。


アルバイト先で

 店長に頼んでアルバイトに雇ってもらい、手伝いを始めた常二は、週末の金、土曜日の二日間、元町のライブハウスで働いた。


接客にも慣れてきたが、仕事を終えるのが十一時過ぎになり、それから電車で四十分かけて下宿まで帰ると零時を回ることになる。帰宅すると、そのまま寝てしまうことが多かった。


金曜の夜は満席になり、注文をさばくだけでも忙しかった。
店長は厨房にいて、ベテランの男女の店員が一人ずついるのだが、常二と三人でも廻っていないくらいだった。
店のドアが開いて三人の若い女性客が入ってきた。
テーブルの片付けをしながら、いらっしゃいませと言ってその客を見ると、一人の女性客と目が合った。


「賀集君?」名前をすぐに呼ばれたので、
思わず、「はいっ」と返事を返した。
顔を見ると、大学の美術概論の授業で再会した女子学生だった。
「ここで働いてるの?」と笑顔で常二に近づいてくる。
後ろから連れの二人もついてきた。
「うん」と言って、「お久しぶりです」とあいさつした。


阪上美彌、たしかそう言っていたなと思い出したが、つい間違って、
「阪下さん」と言ってしまった。
「阪上でしょ、ひどい、間違えて」機嫌を損ねた顔で常二を見る。
「はいはい、よくあるお約束でしょ」連れの一人が笑いながら、割って入る。
「そう、ボケでしょ、美彌、そんなに怒らないの」もう一人もなだめる。


「ひどくない?」二人に同意を求める美彌に、先に口を開いた方の女が
「いいじゃない、美彌、こんな素敵な人、どこで知り合ったの?紹介しなさいよ」と言ってごまかしてくれた。
「文学部の賀集君。同じ二回生」美彌が言うと、
「社学の佐知です」「商学部の美和です」と二人は名のった。
「よろしくね」と笑顔で手を振る二人に、常二は精一杯の笑顔で答えた。


空いた席に三人を案内して、飲み物の注文を取り、カウンターに戻った。


この夜は、ジャズのグループが何組か出演することになっていた。飲み物を美彌の席に運んだとき、美彌はその中の一グループに知り合いがいるので見に来たと説明した。


食事や追加の飲み物を運んでいくたびに、佐知や美和から、
「どこで知り合ったの?」とか「美彌のどこが好き?」とか、酔いに任せて話しかけてくる。冷やかされて困惑する。
美彌はそのたび、「ちょっと」と連れに注意したり、「ごめんね」と常二にわびたりした。


ライブも終わり、客の大半が店を出ても三人は残っていた。
「今夜はご来店ありがとうございました」と常二があいさつすると、
美彌は、「いつお店に入ってるの?」と聞いてきた。
「だいたい金曜と土曜の夜」常二が答えると、
美彌は「また来るわ」と言ったあと、「月曜の3限、空いてる?」と聞くので、「うん、空いてる」と答えると、「じゃあ、学食のカフェで待ってるわ、来てくれるでしょ」と言った。


「いいよ、月の3限ね」常二が答えると、「名前を間違えたお礼をさせてあげる」と言って「バイバイ」と手を振った。
常二はわざと「はいはい」とゆっくり言って、美彌を見送った。連れの二人は、そのやりとりを見て笑い声を上げた。

次の月曜3限

 常二は2限の講義の後、友人と別れて学生会館にあるカフェに向かった。
何組かのグループがテーブルを占めていて、満席かと思ったが、奥の二人掛けの席を探すと、手を振る美彌を見つけた。


美彌は、前会ったときと違って、濃い化粧をしていた。リップが赤く照っている。服も他の学生が着ていないような上品なものだった。


「待った?」と常二が聞くと、
「今来たところよ」と白い歯を見せた。
「今日は一段ときれいだね」と常二は思いきって言ってみた。言ったあと、胸鳴りが高まった。
「本当?ありがとう」美彌はうれしそうに笑顔で常二を見る。


常二はカフェオレを二つ運んできて、美彌と一緒に飲んだ。
カップを置きながら美彌は、
「常二君て、彼女いるの?」といきなり聞いてきた。
「いない」即答した。
「そう」しばらく間をおいて、
「ねえ、いやじゃなかったら」と言って美彌は言葉を切った。
「いやじゃなかったら?」常二が聞き返すと、
「あたしとつきあってほしい」真顔でさらりと言う。
常二はカフェオレを吹き出しそうになったが、カップを置いて、「いいよ」と答えた。


常二は言ったあと、これは何か悪い冗談ではないのかと思った。
どこかから誰かが常二の表情をカメラで録画でもしているのではないか。
しかし、今までの美彌の印象では、そんなつまらないことをするとは思えない。


「俺の、どこがいいの?」なぜ、自分を気に入っているのか、それが知りたい。
「あの時から」美彌はそう答えた。
「あの時って、中央芝生で?」
「そう、中央芝生で。あの時、あなたにジュースかけちゃったでしょう」
「よく覚えている」常二が答えると、
「あの時、一目で気に入ったの」と美彌は言った。
「イケメンだったから?」冗談で言ってみた。
「うん、顔も好きだし、雰囲気が良かったの」笑いながら美彌が答えた。
「照れるやん」常二が茶化すと、美彌は、
「私のことどう思った?」と逆に尋ねた。
常二は、正直に言おうと思い、
「きれいで、やさしそうな人だなって思った」と答えた。
「タイプ?」「そう、めっちゃタイプ」常二が即答すると、美彌はうれしそうに、
「うふっ」と笑った。
「話しやすそうに思ったの」
「何でも聞くよ」
「本当?」
美彌の大きな二重の目がさらに大きくなった。


「何が好き?」何でも知りたいからと美彌は言い足した。
「本と音楽かな」と常二は答えた。
「私も本が好き。音楽はどんなのが好き?」
「洋楽、ロックが好き。美彌は?」と言ってから、常二は、
「美彌って呼んでいいかな」と尋ねた。
「もう一回言ってみて」美彌はうれしそうに言った。
「美彌」常二がすかさず言うと、
「うふっ」と満足そうに笑う。
「にやけてますけど」常二が言うと、
「もう一回お願い」おねがーいと語尾を伸ばした。
「あほらし」常二があきれると、
「大事にしてね」と返された。

 その日から毎日、常二は授業の空き時間に美彌と会って話をするようになった。
美彌はよく話をする人で、常二はいつも聞き役に回った。
明るく、楽しい話ばかりなので、美彌と会うことがうれしかった。
しかし、常二は自分の家のことを聞かれたらどうしようかと思った。


美彌は、ライブハウスに一緒に来ていた佐知や美和を連れてくることもあった。
佐知は、
「この子、最近、のろけばかり話すのよ」と常二に知らせた。
「そんなに私、のろけてる?」恥ずかしそうに顔を赤らめ佐知に聞く美禰を見て、
「美彌の機嫌がよかったら、俺はうれしいよ」とフォローしておいた。
「はい、またのろけ」佐知が笑った。


一緒にいる姿を常二の友人にも見られて、常二は仲のよい柴崎から、
「お前、いつの間にあんな美人つかまえたんや?」と問い詰められた。
「もう、行くとこまでいったか?」
「そんなんとちがう。美禰とは友達」常二がいくら言っても信用しなかった。
「美彌さんの友達を紹介してもらいたいわ。頼んどいてくれ」柴崎は常二にこう言って、顔の前で手を合わせた。


佐知や美和から、常二と出会ってから美彌が楽しそうにしていると聞き、うれしくなった。
自分みたいな男でも、人を幸せな気分にさせるのかと思うと、なんとなく元気が出る。
常二の実家は未だ苦しく、仕送りも途絶えたままだった。
とりあえず後期の授業料をなんとかすることが常二にとって大きな課題だ。
もっと美禰と楽しく過ごしたいのだが、アルバイトも増やさなくてはいけない。
就職が決まった先輩に家庭教師のアルバイトを譲ってもらうことになったのはありがたかった。

中央芝生でランチ

 時計台の前で階段に腰掛けていると、美彌が大きなトートバッグをもってやってきた。
今日は芝生で一緒に昼食を食べることになっていた。


中央芝生は、サークルの集まりや、寝転がるカップルや一人で本を読む人や、フリスビー、バドミントンをするグループなどで賑わっていた。


空いているスペースを見つけ、芝生の上に美彌が持ってきたシートを敷いて並んで座った。
トートからバスケットを取り出し、開くとサンドイッチがたくさん、きれいに詰められていた。
「さあ、どうぞ」美彌の笑顔がこぼれる。
「すごいごちそう、たいへんだったでしょ」常二が言うと、
「早起きして六時から作ったの」と言いながら、おしぼりを常二に渡す。
「ありがとう、こんなにたくさん」
「がんばったけど、味見てみて」と言って、一切れ差し出した。
「うん、おいしい」
「本当?うれしいな」美彌は常二の目を見てほほえんだ。


半分ほど食べ終えた頃、柴崎が常二を見つけて声をかけてきた。
「常さん、紹介してよ」柴崎が二人の前に立つと、背の高さが一段と感じられる。
柴崎は高校時代、アメリカンフットボールをやっていて、身長は百九十センチメートル近くある。
見上げる感じになって、大きさに驚く美彌に、
「同じゼミの柴崎君。でかいでしょう、こちらが阪上美彌さん」と常二が言うと、柴崎は、
「やっとですよ。今まで俺らの間でこいつが美人をつれてるとうわさになっていて、誰も会ったことなかったから」
「柴崎です、よろしく」そういって尖ったあごに特徴のある柴崎は頭を下げた。


「こちらこそよろしくね、よかったら食べていって」そう言って美彌は柴崎にサンドイッチを差し出す。
「ええ、いいの?むちゃうまそう」柴崎は一口で食べてしまった。
「うまいわー」そう言うと、「こんなうまいものつくってもらえるお前がうらやましいわ」と言いながら常二に目で合図する。
「なんや、目にゴミはいったんか」常二が言うと、
「ほら、あれや、忘れたんかあのはなし」柴崎が言うので、常二はやっと、美彌に友達を紹介してもらいたいと言っていた話を思い出した。


「美彌、柴崎に合いそうないい彼女、いないかな。誰か紹介してあげて。見た目はごついけど、いい奴なんや」常二が聞くと、美彌は、柴崎に
「どんな人がタイプなの?」と聞く。
「かわいくて、小柄な人」柴崎の答えに、常二は、
「背の低い女子が好みやねん、こいつ。自分はでかいのに」と美彌に説明する。
「凸凹カップル?」美禰はまじめに言うのだが、常二は思わず吹き出した。
「頼みますよ」と言って去る柴崎を二人で見送る。


「いいやつなんやけど、見た目がごついから損してる」と常二が言う。
「阪急電車で、競馬の開催日に、柴崎が車内で煙草を吸ってる男に出会って」
「それで」美彌は、身を乗り出した。
「柴崎がじっとその男をにらんでいたら、男が気づいて、あわてて煙草を口から落として、次の駅で降りて逃げていったらしい」
「本当?」美彌は笑いながら常二の膝をたたいた。
「根はいい人なんや」

食べ終えたあと、二人で芝生に寝転がって空を見た。
あざやかな青色に晴れた空は、キャンパスが六甲山麓の東端の丘陵地にあるせいか、街で見るよりも近く感じた。
白い時計台が、青空と流れる白い雲と絶妙に釣り合っていて、美しい。
「あたし、あなたに会えてよかった」
常二の横でつぶやいた美彌の横顔は、常二には一瞬、寂しそうに思えた。

 美彌は時計台の図書館でも常二のレポート書きにつきあってくれた。閉館時間まで、参考文献を読みあさり、レポート用紙に写す作業をする常二のそばで、自分の専門の勉強をしながら常二が終わるのを待っている。


 常二が元町のライブハウスのアルバイトに入っている夜も、美彌は一人で店に来て、早上がりの常二を待っている。九時過ぎに仕事を終えると、美禰と連れだって元町の山手にある路地裏の小さな店に、ご飯を食べに行った。 

 そして阪急電車の各駅停車で、夙川まで一緒に乗って帰り、降りる美彌を電車の窓から見送る。美彌は大股でホームを歩きながら大きく手を振る。電車が美彌を追い越していく。美彌は常二にずっと手を振り続ける。

発作

 その日も美禰の授業の終わりを待って一緒に川沿いの道を駅まで歩いた。
駅の近くにクラシック専門の小さなカフェがある。いつもと同じように、二人でお茶を飲み、流れるクラシックの曲を美禰が解説してくれる。


奥のテーブルで同じ大学のサークルの集まりがいる。突然、大きな声で高い笑い声が起こった。
その声が聞こえた直後、美禰の顔面が蒼白になり、目がうつろになって、肩で激しく呼吸しだした。


「どうした?具合悪いの?」常二が心配して顔をのぞき込むと、美禰はふりしぼるように「出ましょう」と言った。
たっていられない美彌を両脇から抱えて、会計を済ませて店を出た。途端に美禰は道に座り込んだ。顔を両手で覆って、肩で激しく息をする。
動転してしまった常二は、美禰の背中をさするばかりで、どうしたらいいのかわからない。


「大丈夫か?救急車呼ぼうか」
血の気の失せた顔で肩を振るわす美禰。激しい息づかいが止まらない。
駅に向かうタクシーが丁度近づいてきたので、常二は思わず手を挙げて、車を停めた。
「乗れる?」美禰を支えて右のドアから乗せる。左ドアにまわり、美禰の頭を膝の上に載せて、運転手に急いで苦楽園に向かうように頼んだ。


大学前まで引き返して、キャンパスの中の道を通り、左折する。対抗できないほどの狭い道を通って、長い坂道に出る。そこをくだり、交差点を直進して坂道を登る。そこまで細かく運転手に道順を教えて、とにかく美彌の家まで連れて行こうと考えた。
常二は美禰の家を知らなかった。苦楽園のどこかにあるはず。近くまで連れて帰れば、なんとかなるのではと思い、祈るような気持ちでタクシーの進む道を見つめた。


美禰は苦しそうな息づかいは変わらず、両目からは涙が流れている。
「しっかり、大丈夫だから」
「もうすぐ家だよ」
「ゆっくり息を吐こう」
おそらく発作を起こして過呼吸になっている。美禰を救ってほしい。神様でも何でもかまわない。美禰を、救って。


タクシーが苦楽園の駅前に来て、常二は美禰の家に電話だと気づいた。
何度かの呼び出し音のあと、美禰の母親が出た。あわてて事情を説明し、家の住所を聞いた。すぐにタクシーに向かってもらった。
苦楽園の駅から山に向かってかなり坂道を登った。何度もカーブをまわり、着いた家はびっくりするぐらい大きな門構えの邸宅だった。付近も豪邸が並ぶ一角だ。


タクシーが門の前に着くと、中から若い女性が出てきて、常二にあいさつをして、「美彌さん、もう大丈夫ですよ」と言って、美禰を車から降ろし、家の中に連れて行った。すぐに引き返してくると、その女性は、運転手に万札を渡し、「これでお送りしてください。」と言った。
常二はただ茫然として、運転手に「苦楽園の駅までお願いします」と言った。

 それから三日経つが、美彌から何の連絡もなく、常二の電話にも出なかった。大学でも美彌の姿はなかった。
その間、常二は下宿で、あの日のことを思い出しながら、考えていた。


何か美彌の気に障ることを言わなかったか?会ったときにちゃんと美彌のことをかわいいと褒めたか?
美彌が嫌がる振る舞いをしなかったか?
答えはすべてノーだ。特に変わったことはない。
では、何が悪かったのか。


何度も反芻した。仕舞いには、手の中の水がすべてこぼれ落ちるように、美彌が常二の目の前から消えていくのではないかという妄想に苦しめられた。
あのカフェで、大きな笑い声が起こったとき、美禰は急に具合が悪くなった。そのことが引き金であるように常二には思えた。
しかし、美彌はなぜ、電話にも出ないし、自分からも連絡してこないのか。電話もできないほど重い病気なのだろうか。


 明日には美彌の家に直接電話してみよう、そう決めた金曜の夜、アルバイト先の店に、美和が尋ねてきた。
美和の深刻な顔を見た瞬間、常二は美彌のことでやはり重大なことが起こっていると察した。
今夜は客が少なかったので、店長に頼んで店の席で美和と話をした。


美和は、席に着くとまず、常二に美彌を助けてくれてありがとうと言った。
そして、美彌からと言って手紙を差し出した。
「読んで」と言われて、常二はきれいな模様の便せんを開いた。常二は緊張した。
美彌の丁寧な字が並んでいる。長い手紙だった。読み終えると、美和は
「あの子はあなたが自分のことを嫌いになると思い込んでるの」
「バカでしょう」美和は言った。
「発作なの。今までに何度か起こしている」
「原因は、その手紙に書いてあることが大きいと思うの」
美和はそう言って、
「今は体調は戻ってるわ」と告げた。


美和は普段と違って笑顔を見せない。
「そう、よかった」常二が言うと、
「それがよくないの」
「心の方が具合悪いのよ」と美和は言う。
「あなたがこれで美彌から離れてしまうと思って、泣いてばっかり」
そういう美和は常二の顔を見て、
「どうなの」と尋ねる。
「美彌と別れる気?」
「えっ、何で?」
「別れるわけない」
「本当?」
「本当」
「絶対?」「ぜったい」常二は即答した。
「持病があって、発作を起こして、それで別れるなんて事は絶対ない」
「嘘だったら、大阪湾に沈むわよ」
「こんな時に冗談は止めて」
「阪上家の力ならあなた一人くらい消せるのよ」
「だからやめて」


「本当なの?そう、よかった」ホッとした表情を見せて初めて美和は笑った。
「あなたがどんな返事をするか心配で夕べは寝られなかったわ」


美和はそのあと、軽い食事をしながら、常二に美彌と会う段取りを話した。
月曜の昼に、美和が付いて美彌を連れて行くから、学食のカフェで待っているようにと言うことだった。
美和に、「ありがとう、いろいろ心配してもらって」と言うと美和は、
「あの子とはずっと友達だからね」と答えた。


店を出る間際、美和は、
「美彌を泣かせたら、沈めるから」と言った。
「やめろ」常二が言うと、バイバイと笑顔で手を振って帰って行った。

月曜の昼、カフェで

 月曜の昼に、学食に行ってカフェを覗いた。美彌と美和はまだ来ていなかったので、店の奥の方で、静かに話ができそうな席を選び、二人が来るのを待った。


待っている間、いろいろな思いがわき起こったが、とにかく美彌の顔を見ることが第一だと思い直した。
美和が常二を見つけて、笑顔で手を振った。後ろ手で、美彌の右手をつないで、美彌を引っ張るようにして席にやってきた。


常二の向かいに美和と並んで座った美彌は、長い黒髪が顔を覆って、表情がわからない。
「待ってたよ、美彌」と常二が声をかけると、うつむいていた美彌は、顔を上げ、右手で髪を掻き上げて、二重の大きな目で常二を見つめた。常二が瞳を見返すと、美彌の瞳の表面に涙の膜ができるのが見えた。こぼれそうなところで耐えている。


「ごめんね、心配かけて」そう言うと、ハンカチを取り出して目元をぬぐった。
美和は横で心配そうに美彌の顔を見まもっている。


「手紙読んだよ。いろいろたいへんだったんだね。でも、これからのことが大事なんじゃないのかな。俺たちの。話したくなったらいつでも聞くから。少しずつ美彌のことをわかっていくから。今まで通り、仲良くやっていこう。それでいいかな」
常二はことばを慎重に選びながら、ゆっくりと語りかけた。


美彌の大きな目から涙がこぼれ落ちた。
ハンカチを当てずに、常二の目をじっと見つめる。
「おこがましいけど、俺を信じてほしい」
「さあ、美彌、常二さんもこう言ってるから、泣かないで」美和が横からハンカチを差し出す。
「ずっと泣いてるでしょ、もう、泣くのは止めて。あとは二人で水入らずで話してね。大丈夫でしょう、美彌」
美和はそう言って、席を外そうと立ち上がった。常二の顔を見て、
「泣かせたら、大阪湾よ」と真顔で言った。
「ここで言うか」
美和は笑って、
「よろしくお願いね」と二人に手を振って出て行った。


 しばらくして美彌は、顔を常二に向けた。
「ねえ、本当にいやじゃないの?」
「当たり前だろ、俺はずっと美彌が好きだ」
「うふっ」涙をためたままの顔で笑った。
「もう一回言って」
「俺は美彌が好き、ずっと好きでいるよ」
「うれしいわ。大事にしてくれる?」
「ああ」
「ひと言だけなの?」
「これ以上、言わせる気?言う方も恥ずかしいわ」


二人で、カフェオレを飲んだ。少しぬるい。
「大阪湾って何?さっき美和が言ってたの」
「それは、ちょっと」言葉を濁す。
「何?教えて」
「泣かない?」
「ええ、何で?」
「じゃあ言うわ。俺が美彌を泣かすと、大阪湾に沈められるってこと」
目を見開いて常二を見る。
「誰が沈めるの?」おかしそうに笑って聞く。
「美和が言うには、阪上家なら俺一人ぐらい簡単に消せるそうだって」
「泣いてやる」美彌が突然泣きまねをしだした。
「やめろ!」

 その日は二人でバス道をゆっくり歩いて帰った。電車で北口、夙川、さらに苦楽園まで行き、一緒にホームを出ると、美彌は、「今日はここでいいわ、大丈夫。ありがとう」というので、電話するからと言って引き返した。


電車が来るまで、美彌は見送っていた。発車した電車の窓から、美彌に手を振ると、美彌は飛び上がって大きく手を振った。

美彌の家に呼ばれる

 美彌が発作から回復して二週間ほどが過ぎた頃、常二は美彌の家に行くことになった。
美彌の母が、常二に会いたいと言う。
美彌は少し心配していたが、常二は美彌の母にちゃんと会って、自分のことを知っておいてもらうのは悪くないと考えて、打診された日曜日に行くと返答した。


あの日に門の前まではやってきたのだが、 今日は門をくぐって入る。エントランスまでは美術館の建物のような庭の広さだ。玄関には美彌が待っていた。


「来てくれてありがとう」
「立派なお屋敷で、緊張する」
小声で美彌に言うと、常二はロビーのような広さの部屋に通され、十人以上はかけられそうな長いテーブルにすすめられるまま腰をかけた。
飲み物を運んでくる美彌の顔が少し緊張して見える。


美彌の母は、奥のドアを開けて出てきてて、常二にあいさつをした。
「先日は美彌がお世話になり、ありがとうございました」そう言って深く礼をした。
常二は思わず席を立ち上がり、同じく深い礼をした。


美彌の母は、四十歳代とは思えないほど若く見えた。美彌と姉妹と言ってもおかしくない。
美彌によく似ている顔立ちだが、常二を落ち着かなくさせるような貫禄が感じられた。
美彌と常二は並んでテーブルに着き、美彌の母は向かい側に座った。


「美彌から話はよく聞いています。いろいろやさしくしてくださっているそうですね」
「いえ、とんでもありません。僕の方が美彌さんによくしてもらっています」
俺とは言えなかった。


先日見た若い女性がケーキを何種類も運んできた。「お好きなものをどうぞ」と言って出て行った。
ケーキはどれも食べたことのないような上品な甘さだ。


美彌は今日はあまり口を開かない。主に美彌の母が常二に問いかけ、常二がそれに答えるというやりとりが続いた。
常二は自分の家のことを聞かれたらと心配したが、さすがにそれは話題に出なかった。


常二はだんだんと打ち解けてきて、話の途中で三人が笑うこともあった。
しかし、美彌が席を外して二人になると、美彌の母は、
「あの子は帰国してから小学校で、いろいろとつらいことがあって、この前のような発作を起こすようになったんです」と切り出した。美彌は父の事業のため、カナダで幼時を過ごし、小学校高学年になる頃帰国した。
「ずいぶんよくなってきているのですが、まだ完全には治りきっていないので、どうかそれを理解してくださいね」
常二は「はい、わかりました」と答えたが、美彌の母は、まだ言い足りないと思ったのか、
「あの子をそっとしておいてくださいね。大事な時期なの」そう言って常二の顔を見た。
常二はその意味を美彌とは男女の深い関係になるなと言っているのだと受け止めた。


「約束してくださるわね」念を押してきた。
「わかりました」と答えたあと、常二は、何とも重い気分になった。


美彌の母のこの言葉が常二には呪いの言葉になった。

だんだんとボディブローのように効いてくることば

 会うたびに、毎日、「きれいだ」と常二が言うことをねだる美彌。
そう言われると、「うふっ」と言ってはにかむ美彌。


ところが、常二は美彌の母のことばを聞いてから、美彌にキスを求めなくなり、手もつながごうとしなくなくなった。
もちろん、常二は、美彌といると楽しいし、美彌の美しさに見とれることもある。一緒に歩いていて美彌の身体に、自分の手や肩が触れると、常二の身体の芯に戦慄が走る。美彌の豊かに盛り上がった胸のラインや、細いが均整の取れた白い脚を見ると、美彌に欲情するが、常二は首を左右に振って頭の中の妄想を振り落とす。


今日も、美彌と別れて下宿に一人帰ると、常二は我慢できずに自慰行為にふける。美彌の姿を思い出し、どうしようもない衝動に突き動かされて、熱でほてった身体から情念を放出する。そして必ず、後悔の思いがわき起こる。美彌を汚しているように思える。

美彌は常二がキスを求めなくなったのを不審に思いはじめていた。
学校から一緒に川沿いの道を帰りながら、今日一日の出来事をお互いにしゃべっていたとき、ふと話すのを止めた美彌は、
「ねえ、今日は下宿について行っていい?」と聞いてきた。


常二は美彌をまだ一度も下宿に連れてきていなかった。アルバイトに追われ、二人でゆっくりできる時間がなかったこともあるが、美彌を下宿に連れてくると、その時は、自分の衝動を抑えきれないと自覚していたことが大きかった。
そうなってしまうと、美彌との関係も変わってしまうのではないかと恐れていたのかもしれない。
何より、あの呪いの言葉が効いていて、美彌の身体に触れることができなかった。


「また、今度にしよう。今日は都合が」ということばにかぶせるように、美彌は、
「なんで最近手もつながないのよ、おかしいでしょう?」と怒気を含んだ声で言った。
「私のこと、いやになったの?」立ち止まって、美彌の大きな目が常二の目を見つめる。
常二は耐えられずに目をそらす。


追い打ちをかけるように、
「おかしいわ、この頃。常二、私に隠し事あるでしょ」と言った。
そして「好きな人できたの?」と小声で聞いた。


「いや、絶対、そんなことない」常二が言い張っても美彌は納得しなかった。
「じゃあつれてって」美彌は怒って言った。
「今日は止めておこう」そう言うと、美彌は
「私、帰る」と言って一人で駅の方にかけだしていった。


常二はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。

柴崎の来訪

 下宿に柴崎が来た。
大学の講義に常二が出ていないのを心配して来たという。
「なんか、しけた顔してるなあ。どうしたんや」
そう言って買ってきた飲み物を差し出す柴崎に、常二はつい、美彌とのことを話してしまった。


美彌の家に呼ばれて行ったこと。美彌の母から美彌の身体に触れないよう釘を刺されたこと。
それ以来、美彌の身体に触れられず、キスもしないし、手もつながないこと。美彌が怒ってしまったこと。
黙って聞いていた柴崎は、常二の話が終わると、
「お前はアホか。何でそんな母親の話を真に受けるんや」とののしった。


「どこの世界に彼女のママのお願いに従う男がいる?いたとしたら、人類は絶滅してるわ」
「人がいいのもいい加減にしろ、美彌のママが美彌に触れるなって?そんなことは美彌本人が決めることやろ、違うか?」
「もう成人したええ大人が、自分の生き方を自分で決められずに、ママの言いなりになってそれで幸せか?」
「美彌さんはそんな甘ちゃんと違うやろ」
柴崎のことばは手厳しかった。ひと言ひと言が常二にはこたえた。


「でも、美彌にはいじめられたことで心が不安定になる病気があって」
常二が説明すると、
柴崎は、
「美彌さんのそれは気の毒だと思うし、お前が心配するのもわからんでもない。でも、彼女はそれを克服しようと戦ってるのと違うのか。お前とつきあってるのもそのひとつや。美彌さんのその努力にお前は、腫れ物に触るような態度で接しているのか。」


「それが美彌さんとの誠実な向き合い方なんか。考えてみろ」
柴崎にここまで言われて、常二はひと言も反論できなかった。


買ってきた炭酸ジュースを一気に飲み干すと、柴崎は大きなゲップをした。

その晩は柴崎と下宿で飲み明かした。


「彼女が俺を求めて離してくれんのや」
柴崎は美彌の紹介でつきあっている彼女のことを話し出した。


「おとなしい子と思っていたら、情熱的で。会うたびに俺を欲しがる」
「それにこたえるため、俺は会う前に必ず自分で抜いてから、会うようにしてる」
「どれだけ絶倫なんやお前は」常二は聞いていてあきれるばかりだ。美彌が言った凸凹カップルということばを違う意味で思い出した。


「初めての時は、俺のがでかすぎてうまくいかんかった」
「でも、次から何回も求められて」
柴崎の彼女は小柄で童顔なので、柴崎の話がにわかには信じられない。
「あのかわいい感じの人が?」
「そうや。お前は女性の怖さをまだしらんやろ」


「美彌さんも結構、」そう言って、にやけた顔を向ける柴崎にすかさず、
「やめろ」と言った。
「ええか、俺が美彌さんに連絡するから、来週一緒に会ってちゃんと話をしろ。そうやな、美和さんにも来てもらおう」
「俺に任せとけ」柴崎はそう言って、缶ビールを飲み干した。

 翌週、約束の日に常二は柴崎と一緒に大学前のバス通りにあるカフェに向かった。二階の席にあがり、美彌と美和が来るのを待つ。


間もなく、美和が、その後ろに美彌をつれてやってきた。
柴崎が大きく手を振って二人を席に招いた。


座るとすぐ、美和が常二に真顔で
「大阪湾に沈め」と言った。
「あれだけ言ったのに、なんで美彌を泣かせたの」問い詰める美和に、柴崎がまあまあと言って取りなす。


常二は慎重にことばを選んで、美彌への態度をわびた。美彌の母に原因があるとは思われないように、美彌に話すのは難しかった。自分の勝手な思い込みが間違っており、美彌にいやな思いをさせてしまい、すまなかったと言った。
聞いていた美彌は、前と同じように大きな涙をこぼした。


「ちゃんと美彌に向き合っていきます」常二が、三人に向かってそう言うと
美彌は、「私のことを大事にしてくれる?」と尋ねた。
「もちろん、大事にする。美彌のことを好きだ」というと、
泣き笑い顔で、「うふっ」と言った。


やっと美和も表情をやわらげ、
「手のかかるカップルだこと。コンサルタント料もらいたいわ」と言った。
柴崎は「どう見てもお似合いの二人なんやから、少々のことで、ゴタゴタせんときや」と言った。
美和は「あなた、本当にわかってるよね?今度美彌を泣かせたら大阪湾」その言葉を遮って
「以後気をつけます」常二は思わず頭を下げた。

 柴崎と美和と別れて、美彌と川沿いの道を歩きながら、駅に向かった。
美彌の家の近くで夕食を一緒に取ろうと電車に乗った。


電車の中は夕方の帰宅ラッシュで混んでいた。ドアのそばに立つ二人の手と手が触れた。常二は美彌の手に自分の手を重ね合わせ、強く握りしめた。
美彌は常二の顔を見上げ、「うふっ」と言った。


苦楽園で降りて、芦屋の山手方面に続く坂道を手を握ったままゆっくり歩いた。しゃれた店が建ち並ぶ一角では、ショーウインドウに映る美彌の姿が美しかった。


見落としてしまいそうな小さなレストランに入り、二人でイタリアン料理のコースを食べた。美彌は元気を取り戻し、よくおしゃべりをした。常二はそれを楽しく聞いた。この時間が永遠に続いてほしい、そう願いながら、美彌と過ごす一時一時が大切な人生の瞬間だと思った。


「もう二度と泣かさないでね」美彌が食事を食べ終えたあと、コーヒーを飲みながら言った。
「約束するよ」
「前もそう言ったでしょ」美彌がすねた表情を浮かべるので、テーブルの下で美彌の太ももを右手でつねった。
美彌は常二を見つめたまま、二重の目を大きく見開いた。


「何するの」まわりを気にして声を潜めて常二に顔を近づけて言った。
「その口をつねりたいわ」常二が言うと、美彌は
「ひどい」と言って常二を見つめる。
「ひどいのは美彌の方さ。俺を信じてくれないなんて」と言い返すと、
「じゃあ許してあげるから、もう一回つねって」
「変態か」常二があきれると、
「お願い」というので、美彌の太ももをやさしく撫でた。
「うふっ」といつもの声を出した。


塚本の自殺

 秋の大学祭で、常二は軽音楽部の知人に頼まれ、サポート役で二曲だけギターを弾いた。演奏が終わったあと、何人かの学生から、かっこよかったよと声をかけられてうれしくなった。待っていた美彌にどうだったと聞くと、「よかったわ。でも、なんだか別人みたい」と言った。「惚れ直した?」と聞くと、美彌は「調子に乗ると、大阪湾よ」と笑いながら言った。


 その知らせは下宿に来た柴崎から聞いた。
同じゼミの塚本が、自殺したという知らせだった。


塚本は実家がお寺で、親との折り合いが悪かったという。
塚本は先月、初めてひとりで常二の下宿を訪ねてきたのだった。
その晩は音楽や彼女のことなど他愛もない話をして常二の下宿に泊まって帰ったのだが、塚本からはそんなそぶりは一切感じ取れなかった。
柴崎の話を聞いた常二は全身に鳥肌が立った。


柴崎は葬式に行くというのだが、常二はあいにく仕事が入っており断れないので、参列できないと言った。
柴崎は俺が常二の分も併せて参列してくるから、気にするなと言って帰った。


下宿で一人になると、常二は塚本が来たときのことを反芻した。
何気ない会話の中に原因と思われることはなかったか?
たしか塚本は常二の親のことを尋ねた。


常二は隠さずに、自分の家は母子家庭で、父には会ったこともない、今は経時的に苦しくて、学費も仕送りもなく、アルバイトに追われている。そう言うと、お前もたいへんなんやなと塚本は言った。


なぜ、あの時、死を考えていたなら相談してくれなかったのか。そうしてくれたら少しでも引き止めることができていたかもしれない。
常二はそこまで考えて、自分も高校二年生の秋に一度、自殺未遂を起こしたことを思い出した。


原因は、医者から今の体調なら、通常の社会生活は一生無理だと宣告されたことだった。
高校に入学してから常二は体調に異変をきたした。毎朝からだが重く、だるく、起きにくくなってしまった。
友人はサボりだと言って笑ったが、学校の健康診断で尿検査の数値が異常だと言われ、病院で検査をしてもらうと、即入院させられた。
十日間ほど入院していた間、楽しみだった修学旅行は終わってしまった。


何度もいろいろな検査を受け、告げられた診断が、腎臓に深刻な異常があり、普通に社会生活を送ることはできないだろうという結果だった。それを聞いた母は動転し、なんとかならないのかと医者に尋ねたが、医者はしばらく様子を見るしかないという返事だった。


それ以来、学校を休みがちになり、勉強も遅れて成績が急下降した。国公立大学を受験し、進学することが目標だった常二は、半ばその夢を諦めかけていた。


そんなあるとき、発作的に睡眠薬を大量に飲んでしまったのである。薬は眠れないからと言って処方されていたものに、ひそかに手に入れていたものを加えた量を飲んだ。何か強い力で吸い寄せられるようにして起こした行為だった。
外出から戻った母が常二の異常を発見し、すぐに救急車で運ばれた。


幸い処置が早くて、別状はなく、翌日には退院できた。ただし、退院するとき、医者からきつく叱られた。高校にはそのことはばれなかった。一年後には奇跡的に完治していたのだが。


そんな過去がある常二には、塚本の自殺は痛かった。


その当時のことを思い出し、夜になると、無性に死にたくなった。何かの力で高いビルの屋上にひきよせられる。そしてフェンスを乗り越えて、身を投げる。そんな妄想が繰り返される。
怖くなって一人で涙を流して夜が明けるのを待った。
夜が明けると妄想は消えて、安心して眠りに陥る、そんな日が何日か続いた。


美彌からの連絡には返事ができなかった。心配しているだろうなとは思ったが、今の精神状態では美彌に向き合えない。


一度下宿に来た柴崎は常二を心配して、塚本のことは気にするな、どうしようもないことだと言って慰めた。


このままでは自分はダメになる、美彌も泣かせてしまうと思うのだが、どうにもできなかった。


柴崎からだいたいの話を聞いたのだろう、美彌が一人で常二の下宿に来た。


夕方誰かがドアをノックするのでようやく身体を起こして、出ると、美彌だった。
美彌は、ひげも剃らず、顔色の悪い常二を見ると、わっと声を上げて泣き出し、常二に抱きついた。


部屋に美彌を入れ、心配をかけて済まないと謝った。
美彌は常二に抱きついたまま身体を震わせ、長い時間泣いていた。そしてやや落ち着くと、常二の目を見て、「抱いて」と言った。
常二は頭を何かで殴られたような衝撃を受けた。


美彌は身を以て俺を救いに来たのか、その思いを拒むことはできない、そう思うと、夢中で美彌を抱きしめた。


濃密な時間が過ぎていった。夜中に目覚めると、常二の横で美彌が寝入っていた。裸の肩を揺すり、美彌を起こした。


「大丈夫なの、家は」と尋ねると、目を開けた美彌は、
「美和の家に泊まると言って出てきたから」と言った。


キスをせがむので、唇を合わせた。
「うふっ」といつものように言った。
「ねえ、もう一回」そういう美彌の胸をきつく抱きしめた。


翌朝、目覚めて見た美彌の姿は、まぶしいくらい美しく、いとおしかった。死のうと思った自分がかき消されてしまった。


二人でシャワーを浴びて、服を着替え、外へ出た。
駅前のカフェでモーニングセットを二人で食べた。


「また泣かせたわね」食べ終わると、美彌が言った。

クリスマス前

 クリスマスが近づくと中央芝生の時計台は、そばに植えられた大きなもみの木に色とりどりのあざやかなデコレーションが施されて、美しかった。


講義が終わって早くも日が落ちて暗くなった中に、イルミネーションが輝く。
美彌はうっとりした顔でその光を見つめている。


「ねえ、クリスマスは家に来て。ごちそうするから」
美禰は常二の肩に頭を寄せながら、そう言った。今の二人なら、美彌の母に対して、なんら負い目を感じることはない。


「うん、行くよ。楽しみだね」
そう言って美彌のほおにそっと口を寄せると、
「うふっ」と言って白い歯を見せた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?