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本の感想 「イエスの学校時代」

イエスの学校時代  
J.M.クッツェー 2020.4.早川書房


「イエスの幼子時代」に続く二作目。血の繋がらない両親、代理父シモンと代理母イネスとともにノビージャを出た少年ダビードは、新しく辿り着いた町の農場で、あるダンスアカデミーを紹介され入学する。ダビードはアカデミーで出会った美しく神秘的な教師を慕い、数のダンスの習得に励みながら快活な学生時代を送るが、予期せぬ事件が起こり…というストーリー。

善き父であろうとするシモンと、悉く一般常識が通用しないダビードの間に横たわる溝は、前作にもまして深くなっているように思われる。事あるごとに『それはなぜ?』と執拗に問いかけるダビードに対し、『普通はそういうものなのだ』という一般論で宥めることしか出来ないシモン。ダビードと問答を繰り返し、アカデミーでの教えに耳を傾けるうちに、シモンは自分自身が信じてきた価値観の支柱を強く揺さぶられ始める。脆弱な石で築いた伽藍のように、今にも崩れ落ちようかという状況にさえ見える。
自分は何故ダビードに認められないのか、彼と同じ価値観で数を習得することが出来ないのか。苦しい自問を繰り返し、けれども奔放なダビードの手を放そうとはしない。その執着は、少なくとも、自ら代理父を名乗り出た義務からではなさそうだ。反対に、ダビードに盲目的な愛情を注いでいたイネスは、新しい職場を得て仲間と意気投合し、3人の関係性から距離を置いているようにも感じられる。

前作の時も思ったが、この作品を読むと、現代社会の中で求められがちな協調性や従順性、または労働生産性といった社会通念に対する猜疑が頭を掠める。彼らの生い立ち、港町に流れ着く前の時代が、(おそらくは意図的に)明確には描かれないため、登場人物の背景を構築するのがむずかしいことも、理由のひとつかも知れない。ときにシモンの苦悩と共鳴しながら読み進めるうちに、折しもここ数年、パンデミック下で露呈される政治や経済社会の脆さ、教育に対する疑念を重ね合わせてしまう。

だが、物語の中に、導きや諭しは一切見あたらない。どこか既視感のある世界の顛末を眺めながら浮上してくるものは、紛れもなく今自分が抱えている疑問であり、闇の投影だ。なんら押し付けることなくそう気付かせてくれる読書の時間が、心にとって豊かな経験であることは疑いようがない。


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