音楽は編曲まで含めて「作品」

クラシックが一段上の存在と思っている方も世の中にはいらっしゃいますが、自分自身はそのような立場は取りません。

ただクラシックでは編曲までを含めて「作曲」ですから、その点は大きく違っていると思います。勿論他の方の作品を「編曲」することはありますが、主に特定の「編成」に合わせるための編曲がほとんどです。また「編曲者」の名前はタイトルに併記されることがほとんどです。

またJazzにしても「編曲」という概念とは違いますが、「音」は演奏者が作るものであり、他の誰かがやるものではありません。

ただポピュラーの場合「編曲者」が別の場合が多いと思います。で、日本はその傾向が極めて顕著かと。

生産性重視で分業制がしっかりと出来上がっているので、編曲まで行う作曲者は少ないですよね。

ただ作曲者や作詞者は表に出てきますが、編曲者はほとんど出てこない。

やはり編曲者(=アレンジャー)の地位は低いんだと思います。

ただ曲なんてアレンジ次第で良くも悪くもなるというのが実態で、本当はアレンジャーって、重要な仕事なんですよ。

しかも大抵の曲だと、ストリングスアレンジはアレンジャー本人がアレンジすることは少なく、他の方がアレンジをしているケースが大半です。

それには色々と事情があるのですが、それはまたの機会に書くことにして、それだけアレンジは「気を遣う」ものです。

確かに「メロ」も大切ですが、他のパートも合わせて聴くようにすると、確実に音楽の「聴こえ方」が変わってくるはずです。

ただ自分自身も日本語曲を書くようになってから、「メロ」を自然と意識するようになってしまっていたんだと思います。

勿論詩先で書くことが多かったことも影響していると思います。詩の中に既にBメロの部分が書かれていることが多いですから。

ただ、英語曲を書いている時はやはり全体の「音」を意識して書いていたのに、日本語で書くようになってから、曲先であっても「コード」を作った後、すぐに「メロ」を書くようになったのも事実です。

小学校の音楽の授業なんてきちんと受けた記憶、ないのにいつの間にか沁みついていたものがよみがえったのかもしれません。

でもそれって音楽の幅を狭めているかもしれない、と文書を書きながら感じ始めました。

勿論「Bメロ」の存在を否定する訳ではありません。

「Starless」が収録されているKing Crimsonのアルバム「Red」には「Fallen Angel」というRobert Frippのハーモニクスがたまらなく美しい曲があるのですが、この曲には明確な「Bメロ」と言える部分がありますから。

ただ最初から「型」にはまる必要はない、そう考えています。

途中では話がどんどんそれてしまい、どうなることかと思いましたが、何とか話がまとまったので、この話はここで終了にしたいと思います。

と思ったのですが、次回にこの答にたどり着くまでに、記事に触れてはいないものの、考えまとめるために聴いた曲を最後にご紹介して終わりにしたいと思います。

ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。