シン・エヴァンゲリオン劇場版:llを観てきました。(ネタバレありです)
シン・エヴァンゲリオンをやっと観に行って参りました。
1995年開始のテレビシリーズから数えると25年。
その物語がようやく完結いたしました。
テレビ版はラストが全く間に合わなかった事から、アニメ史上残る最悪のラストと言っても過言ではない最終回を迎えました。
それが、そこまで作り上げた物語全てを台無しにした事で、作られた劇場版。
物語の正統な続編となったストーリーは、テレビシリーズでは描くことができないであろう描写の連続、かつ人間の身勝手さや醜さを全面に押し出したような物語の展開に、テレビシリーズとはまた別の結末を提示はしたものの救いようのないであろうラストはまたしても非難と賞賛が入り混じるような評価を得ます。
その結末の評価とは裏腹にそのインパクトの強さ故にエヴァンゲリオンという作品は今日まで25年間最も有名なアニメと言われる作品であったと思います。
そこから更に10年後、庵野秀明総監督が『エヴァを終わらせる為』に始動したのがこの新劇場版プロジェクトでした。
2007年に始動したこのプロジェクト。
終わったのが今年。
14年も掛かってるわけです
一つの作品の結末に14年ですよ?テレビシリーズから言うと25年。
本当に全てのエヴァに触れた方はよく我慢したと思います。
エヴァンゲリオンに関してはその作品が余りにも大きくなってしまい、一度結末を迎えた物語をどう結論付けるのか?
どうやって万人が納得するような結末を作るのか?とファン誰もが思ったと思います。
救いようの無い結末も違えば、大団円のような終わり方も違うのでは無いか?
多分、作り手がこれほど悩むラストというものは無いでしょう。
しかし
ほぼ9割が納得するであろう所に落とし込んだな
という感想です。
それが今回の作品のキャッチコピー、
さらば、全てのエヴァンゲリオン
という一言に集約されていると思う。
今までに様々な展開をしてきたエヴァの物語の謎を解き明かされながらも、新事実がどんどんと発表されてきて、全ての種明かしが行われます。
まず!この世界はエヴァの世界と繋がった世界の物語である
という事です。
元々、パラレルワールドという展開は根本にあったのでしょう。
そもそもそれがタイトルに最初から表れていた。
序、破、Qのメインタイトルが『ヱヴァンゲリヲン』と表記されていたのは、『ヱヴァンゲリオン』の世界とは別の世界の話というという事を案に示唆。
エヴァの『たられば』を随所に組み込むも、それが絶妙に加減されていたのが非常に印象的でした。
その不自然さをかき消していたのがマリという存在だったのでしょう。
マリという新キャラクターというインパクト、登場によって加わる関係性などによって、物語が変わっていく事を物凄く自然な流れに見せていました。
決定的だったのが破での渚カヲルの台詞でもありました。
「今度こそ君だけは幸せにしてみせるよ。碇シンジくん」
知ってるんだろうとは思っていたものの、それも確信に変わりましたね。
それを意識させるかのように、エヴァとヱヴァの世界がこの作品で結合しようとします。
既に観た事のあるシチュエーションの連続、しかし、そのどれもが微妙に結末が異なっている。
そんなデジャヴの連続で後半は物語が進んでいきます。
これはエヴァに触れれば触れた数だけ、そのフラッシュバックに引っ掛かると思います。
多分、人によってこのラストまでの30分で提出される問題の答え合わせの数が全く違うと思います。
最後に向かっては新事実と共に、これまでの25年間の答え合わせをしているという意味で非常に疲れました。
その中でもやっぱり衝撃的だったのが…
アスカがレイと同じく作られた存在であったという事
でした。
この事実は本当に衝撃的過ぎて暫く
えええええええええええーーー?????
ってなってしまってました。
確かにそうだとアスカだけが惣流から式波になってた理由が分かるんですよね。
そして、エヴァとヱヴァを繋ぐ要素であったという事でもあったんですよね。
それでシンの序盤でアスカがレイに放った一言が印象的だったんです。
「アヤナミシリーズは3rdに好意を持つようにプログラムされている」
何でそんな事わざわざ言うんだろ?って思ってたら、自分にもそのプログラムが組み込まれているという事だったんだという謎が解けた。
そのプログラムがあったにも関わらず、エヴァの世界では加持リョウジを求めてたという世界だったのかな?と思う。
その結果、「気持ち悪い」結末が「好き」に変換されたのは良かった。
ここで20年来、ファンを苦しめ続けていたトラウマを解消してくれたのは、これ以上ない救いでした。
もう、これだけでスッキリさせて頂きました。
エヴァのパイロットで重要だったのは碇シンジ一人だったという事か。
そしてこの作品でアスカの次に印象を変えたのは、葛城ミサトさんでした。
旧劇場版から考えると物凄いキャラクター転換だなと思いました。
自分の幸せを追求して終わって行ったミサトさんが、親になった事によって碇父子の関係性を理解する事によって姉という立ち位置から母親の立ち位置になっていた事が印象的でした。
加持Jr.の存在でそれを際立たせて、説得力を増すという方法は非常に明解だったと思われます。
凄く悪者じゃないけれど、罪深く描かれていたミサトさんという像が全く変わって行ったのは爽快でありました。
あと、リツコさんとの関係性は変わっていなかったのと、リツコさんが物凄く判断力がズバ抜けてたのが面白かったですね。
ストーリーテラーとしての解説役かと思いきや、ゲンドウと対峙した時に自らの死亡フラグをどんどんバキバキに折っていくのは笑ってしまいました。
そこまで憎みます?リツコさん…
同時にマヤさんとの関係性が戻って行くのも微笑ましくありました。
あとは、やっぱり綾波レイとアヤナミレイ。
様々なものに触れるたびに色んな感情を芽生えさせて行って、絶命するというのは、観客と重なる部分を感じました。
様々なものに触れ、それを幸せな事と認識しながらもその営みの中では長くは生きることが出来ないというのが観客の気持ちを代弁するような格好になってくれていたと思います。
最期の時にプラグスーツが白く変化してしまう演出はズルかったですね。
これが結末への号砲だっったというのは美し過ぎます。
そして、この劇場版のオリジナルキャラクターであったマリ。
ではあるものの、実は彼女は貞本版のコミックに登場しております。
最終巻の番外編として描かれた作品の中に、飛び級で入学したゲンドウやユイ、冬月と同じ研究室の生徒として入学してきた人物でした。
であるが故に、碇ゲンドウを『ゲンドウくん』と呼ぶ事にも得心が行きましたし、唄う歌のセレクトが漏れなく世代からはかけ離れたものであったのも納得です。
碇ユイを慕っていたが故に、人類補完計画を理解しながらもその計画に反旗を翻した訳であります。
冬月が今際の際に『イスカリオテのマリア』と彼女を揶揄したのはその為です。
イスカリオテというのは、ユダを示す言葉であり裏切り者の意味です。
そりゃゼーレサイドとしては裏切り者でしょうね。
続いて渚カヲルくん。
13番目の使徒として、碇シンジの前に現れる事によって物語を終焉に導く調律者のように見えていたのですが、そうではなかった。
この物語のの見届け役として多くの世界を繰り返し続けていた事によって、様々な役を演じ続けた功労者。
その立ち位置を見ると、やっぱり全ての作品において重要な部分を占めていたと思われます。
あとは、この物語の中核である碇親子ですね。
結局のところ、この親子の関わり合いというのが大きなテーマだった。
人類補完計画という御大層な名目があったけれど、結局のところは自分が経験した辛い思い息にさせたくないという親心から生まれた物語だった。
自分自身がその過ち故、大切なものを失ったというのに、結局の所全てを遮断する為の道具であるウォークマンを息子に与えている事など、矛盾だらけではあったものの、それでも生きる事のできる世界を作ろうとしたというのは理解できました。
けれど、結局は純粋過ぎたんですよね。
愛する人にもう一度逢える方法を見出し、その計画を実行するという一点においてだけは共感できる部分ではありました。
しかし、その代償が人類全ての死というのは御免被りたいよな。
と、こんな感じでエヴァという物語は終わりを迎えました。
この四半世紀、様々なメディアで物語が展開されたものが一つに帰結したのは素晴らしいと思います。
ここまで楽しませてくれた事に心よりの感謝をしたいと思う。
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