姫百合協定つまはじき 8章

〇ひとりごと 水の中のミニチュア

 博物館とか、市庁舎なんかに、今居る建物のミニチュアがあることがあると思う。そのミニチュアのなかを覗いたら、また同じミニチュアがあったりするのだろうか?さらにその中にも?だったら反対に、この建物の外にはガラスケースがあって、その外はさらに大きな建物なのだろうか?当然そんなわけはない。他愛のない妄想だと、子供ながらに分かっていた。
 私が特に覚えているのは、ある水族館で見たミニチュアだ。ロビーにやはり今居る水族館自体のミニチュアがあって、そのガラスケースの中が水に満たされていた。
 ケースの向こうで、めぐみが自分の首を絞める仕草をした。意図は分かったが、私はその不謹慎さになじめず、ろくに反応せずに放置した。めぐみのことは決して嫌いではないのに、こうやって私の好みでない笑いを押しつけられるのは困る。少なくとも、中学生ぐらいまでの私は、それを誤魔化す賢さを持っていなかった。

〇がっかりさせて

 由香の親戚の家、とだけ知らされた場所では、家主らしき夫婦が出迎えた。
「自転車、場所とってゴメンね」
 軽く会話を交わす由香と夫婦を、酒匂りんごは靴をそろえながら眺めた。そういえば、駐車場のわきに置かれていたのは由香の自転車だったかもしれない。由香は会話を続けている。
「めぐみは部屋ですか?」
「言ってなかったっけ?めぐみは大学の寮におんねよ」
 由香はやや拍子抜けしたような顔で相槌を打った。

 食事が済んで順番に入浴をする間、由香がりんごを呼んだ。
「約束通り、花火を見ようと思ってな」
「こんな天気でですか?」
 由香は曖昧に受け流して、階段を上がっていく。後ろからちらりと見えた横顔を見て、りんごはがっかりした。この人は私を見ていない。
「めぐみって人のこと、訊いても良いですか?」
 由香は足を止めず、振り返ることもなく、ただ頭をかいた。
「本当はな、逆やねん。最初にあたしがここに泊まれば良いって話になってな。こっちのほうから、あんたらを誘って良いかって頼んでん」
 りんごは曖昧な吐息を返した。それを隠していたことが、そして今になってりんごに話したことが何を意味するのか、すぐには分からなかった。
 由香について階段を何度も上がった先にあったのは、望遠鏡の置かれた小さな部屋だった。天井に四角く切り取られた窓があり、降った雨は骨組みやあちこちではねて、光を乱反射している。
「これが花火だって言うんですか?」
「がっかりした?」
「がっかりはしてません。嘘をつかれたとは思いました」
 由香は困ったように笑った。
「尾張めぐみ、って奴がな。やっぱり花火をみせるって言うて、ここに連れてきてくれてん」
「台風の日にですか?」
「いや。正真正銘、花火大会の日」
 ぽっかりと開けた部屋に雨音が反響し、雨量に負けて窓が壊れたらどうしようかと要らない心配が頭の隅をちらつく。
「ここでチラチラする花火が綺麗やと思っとったんやろうけどな。あたしはちゃんとした花火を見せてくれへんのが嫌やった。ちっちゃかったしな」
「好きだったんですね。その人のこと」
「どうかな。多分嫌いやったのかもしれん」
 望遠鏡の整備に使うのか、壁に設けられたラックに工具類がかかっている。薄暗がりで妙にギラつくその道具達がなんだか自分たちを監視しているようで、りんごには不気味だった。
「ごめんなさい」
「なんのこと?」
「だって、私もがっかりしたから。正直に言うべきでした」
 自分の声の暖かさに、りんごは驚いた。しかし、由香は驚かなかったようだった。
「腐るもんとちゃうし、またいつかやったらええやん」
「そうですね。またいつか」
 湿気てなければいいですけどね、と心の中で付け足した。

〇私たちは結べない

 歩夢が風呂から上がると、美咲と満が持ち込んだトランプで神経衰弱をやっていた。昔からゲーム嫌いの満だが、なぜか美咲とだけは遊んでいるのをときたま見かける。つまはじきの歩夢は、少しすねた気持ちで、ストレッチを始めた。
「みさ、付き合いいいわよね。こんなに負けてるのに続けるなんて」
「それ、負けてる方が言うことか?」
 実は、満はゲームが上手くない。岡目八目でいるときの切れは、実際にプレイヤーになると嘘のように消えてしまう。今も神経衰弱で記憶力の悪さを発揮している。
「なにか賭ける?」
「そんなことしたら友達やめるわよ」
「昔あったね。『なんでも罰ゲームにしない人』」
 満が驚いた顔をした。歩夢は手首に結んだヘアゴムを無意識にいじった。
「覚えてたの」
 美咲は手元を見ながら頷いた。
「夏帆ちゃんのこと引き受けようかって持ちかけたら、罰ゲームじゃないんだからって怒られた」
「それはそうよ」
「本当に、罰ゲームだったら続くかもしれないのに」
 『続く』。それは何だろう。どういう表現なのだろうか。ゲームが続く。関係が続く。気持ちが続く。
「満、私、協定を結びたい」
「悪いけど私、だれかと協定を結ぶ気はないの」
「分かってるよ。仲人だからでしょ」
 満はじろりと美咲を睨んだ。それから歩夢に視線を移す。
「森智里さんから聞いたよ」
「あいつ。みさにだけは言うなっていったのに」
「それは協定?」
「約束よ。仲人は協定を結べないもの」
「そっか。じゃあ、やっぱり歩夢と結ぶしかないか」
 自分がいつの間にか話題に巻き込まれているのは分かっていたが、なんの義理も通されていない以上、無視する権利はあるはずだ。歩夢は長座体前屈をしながら、様子を見守った。
「私がりんごちゃんを引き受けるから、代わりに夏帆ちゃんを引き受けて欲しい」
 思わず力んでしまい、筋に妙な負担がかかった。七転八倒していると、さすがに美咲と満も反応した。
「なにやってんだよ」
「なにやってんだよ、はこっちの台詞だ」
 アンモナイトの化石のようにねじくれて丸まったまま言うのはいかにも格好が付かなかったが、背に腹は代えられない。
「なんだ?あんたらみんな、なかよくコントでもやってるのか?」
 歩夢は長く息を吐いて、なんとか緩いあぐらをかいた。そして、頑固親父のように美咲と満を見据えた。
「りんごにも夏帆にも確認とらずそんなこと勝手に決めて、そもそもがさ」
美咲と満は『何を今更』とでも言いたげな表情だ。今更だろうが言ってやるよ。
「交換条件持ちかけるとか、赤いリボンの証を渡すとかさ、姉妹ってそんなもんか?友達ってそんなもんか?」
「そんなもんじゃないからこじれてんだろ。何と何が釣り合うか、まともに話してこなかったから、りんごちゃんと夏帆ちゃんはこじれてんだろ」
 歩夢は手首に巻いたヘアゴムをにらんだ。それはりんごと交換したものだ。満はめくった札を確認し、投げやりな態度で戻した。
「歩夢が納得しないならこの話は終わりよ。一方的な協定は結べないわ」

++++++

 後になって、このときに気付くべきだったのだと、満は思うようになる。歩夢の態度は矛盾している。少し前にりんごと協定を結んだばかりで、その協定の考え方を批判するようなことを言ってのけたのだ。もっとも、それに気付いたとしても結果は変わらなかったかもしれないとも、満は思うのだった。

〇果たされた協定、破られた協定

 窓際をうろつくのは、今日何度目のことだろうか。台風の勢いは一向に弱まらない。皆がたむろしているところに戻った歩夢は、りんごに声をかけた。
「夏帆、やっぱり来られなさそう?」
「私は夏帆の保護者じゃない」
「そりゃそうだけどさ」
 夏帆の方でもさすがに思うところがあるのか、ショートメールを通じた連絡は主に歩夢に送られている。曰く、いつも使っている道が冠水して大幅な遠回りをしているらしい。最後の連絡は三十分前だが、一向に到着する気配はない。職員と話していた美咲が戻って来た。
「神田の連中がさ、非公式でもいいからやりたいって言い出して、野良で何組か朗読するんだって。混ぜてもらいなよ」
 美咲はりんごを一瞥して、付け足した。
「『エリオット』をやるはずだったグループ、今日来ないってさ」

++++++

 折を見てりんごを隅に引っ張っていき、歩夢は絵本を突きつけた。
「これは?」
「昨日、森智里に頼んで探してもらった」
 りんごは困惑しながらその表紙を見て、歩夢の意図を察した顔になった。それは『アイシャのお城』の絵本だ。りんごは何かを言おうとして、一度詰まって改めてから口を開いた。
「私、夏帆と協定を結んだんだ。あいつが今日の朗読を逃げない代わりに、あいつにアンコールするって」
 なるほど、そういう協定になっていたのか。必死になってこれまで見聞きした情報を集めれば、多少は何か起きたのかを整理することができるのかもしれない。しかし、今の歩夢にとっては、細かい事実よりもりんごの感情の方が重要な関心事だった。
「今更。当人同士の名誉だっけ?もう壊れてるじゃん、あんたら」
 頭の横で結んだりんごの髪が揺れる。髪の束は、心なしかいつもより元気がなく見える。
「よくも私が部外者みたいなこと言ってくれたよね。確かに私はあんたらの協定のことなんて知ったこっちゃない。少ないけどお客さんがいるんだから、役割を果たしなよ」

++++++

 牧村美咲が講堂に飛び込んできた夏帆を見つけたのは、りんごの朗読が佳境にさしかかった頃だった。夏帆はどういう意図なのか、雨合羽の下に冬物の上着を何枚も着込んでいた。りんごが朗読をすることは、歩夢を通してショートメールで連絡してある。
 呆けたような顔をしていた夏帆は美咲に曖昧に顔を向けて、小声で言った。
「『アイシャ』じゃないんだ」
「……うん。私もそう思ってたんだけど。そうじゃなかったみたい」
 りんごが朗読しているのは、ほかでもない、『カエルのエリオット』の絵本だった。
 りんごは、『アイシャ』を選びたかった過去を、今でも重大な秘密にしているのだと思っていた。多少無理をしてでも『アイシャ』を朗読すれば、それで何かが変わるのではないかと、美咲は思っていたのだ。
「なんだ。夏帆ちゃん、知ってたんだね」
「知ってたのに、って思いますか?」
 美咲はぎこちなく頷いた。
「りんごちゃん、言ってたよ。本当はどっちも好きなんだって。でも、エリオットのことを好きって言うのが、自分を裏切るみたいで怖かったって。言ってる意味分かる?」
「全然分かんないです」
 夏帆は空いた客席の一つに腰を下ろし、『カミサマ』を取り出した。すこし区切りがついた気持ちで突っ立っていると、由香と千鶴が無遠慮に扉を開けて入ってきた。本当の朗読会なら無用な出入りは遠慮するところだが、そのあたりは野良なので無視されるようだ。
「そういうわけであたしらも朗読すんで」
「どういうわけで?」
 二人は小脇にいくつかの絵本を抱えている。見る間にポンポンと夏帆の座っている席の隣に絵本を広げ、無邪気に頭を突き合せ始めた。
「あんたはどうする?」
「私は例の金魚鉢の奴を読みます」
 由香は千鶴と向き合って神妙な顔になった。
「正気か?」
「私は常に正気です」
 その瞳の色を吟味し、由香は頷いた。
「分かった。あたしはもう止めへん」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 夏帆が割り込んだ。
「私は一体何を読めば?」
「好きなものを選びなよ」
 やや投げやりな気分で美咲は言った。
「おーし、そしたら順番を決めなあかんな」
 由香は無駄に腕を回し、すでにジャンケンをする姿勢に入っていた。

++++++

音響操作室にこもった満は、高い位置にある小窓から響く雨音を聞いていた。雨粒は決して満に届くことはない。
 こんな土砂降りの中に寝転んだら、どれほど愉快だろうかと夢想する。一方で、そんなことを実際やったら後が大変だろうなとさめた目をする自分を自覚する。
 仕方がないじゃないか。後始末が大変なのは、自分が一番わかっているのだ。
「『特別なことじゃない』だってさ」
 なぜあんなことを言ったのだろう。言葉にするとそれは子供っぽい『気取り』のように思えて、満は困惑した。絆創膏を巻いた指の傷がうずく。満は痛みを親指で強引に押しつぶした。
『ばかな人間には、幸せになる資格はないの?』と聞いたのは夏帆だ。満は『ないよ』と心の中で答えた。

〇笑っておくれよ

 最初は、足音や気配に気付いていないのかと思った。そのくらい気の抜けた様子で、満は椅子に背を預けていた。
「ちょうどよかった。森さんを見なかった?」
 満の口はほとんどひとりでに動いているように見えて不気味だった。
「あの子、こっちとの連絡役なのに顔出さないのよ」
 歩夢は無言でメモを差し出した。ついさっき森智里から預かった連絡事項が書き込まれている。満はそれをのぞき込みながら、髪をかきあげた。まとめられた髪束に声をかける。
「この場合、誰が協定破ったことになるの?」
「さあねえ。小山さんだってわざとこなかったわけじゃないし。酒匂さんの行動だって、状況を考えればしょうがないし」
 満は再び椅子に体重を預けた。
「どうでも良いじゃない。協定破ったからって、仲人を継がせる気もないし」
「当人同士の名誉ってやつは?」
 それを言うなよ、というように満は顎をかいた。
「それこそ、部外者にはどうしようもないことよ。仲人は干渉しないわ」
 その言葉で、覚悟が決まった。歩夢は満と向き合う場所に移動した。
「満。私、仲人になる」
 スピーカーのどれかから、ノイズのように朗読の声が聞こえる。それが千鶴の声だと気付くのに、少しかかった。
「私だって協定を破ったよ」
「どれだっけ?あなたたちが乱暴に協定結んだり結ばなかったりするから、分からなくなっちゃった」
 歩夢は黙って自分の額を指さした。りんごと交換したヘアゴムが、前髪を束ねている。満は無為に手帳を開いたり閉じたりした。
「協定破りになるために、小山さんを切り捨てようとしたの?」
「夏帆には悪いことした。でもさ、どっちかを選べって言われて素直に従うほど、私素直じゃないんだわ」
「そうか。そのほうがみんなのためだもんね。小山さんを切り捨てて、それでハッピーエンド」
「嫌なら、満が助けたら?」
 満はむっすりと機器の操作に集中しているようなポーズをした。
「守秘義務だの、不干渉の原則だのから解放してやるって言ってんだよ。いいかげん、自分でゲームに参加したら?」
 雨音が一気に強くなったように感じて、つかの間そちらに気を取られた。よく聞いてみると、それは千鶴に送られた拍手だった。歩夢は舞台の様子を見た。
「夏帆、結局出ない気かな。先輩は拍手もらってるのに」
「飛び入りの皆が拍手もらってるのに自分だけもらえなかったら惨めじゃない」
「どうすればそこまでネガティブになれるんだ」
 千鶴に続いて、由香が舞台に上がった。後ろにもう一つ人影がある。それはやはり夏帆ではない。
「げっ」
 今日初めて聞いたような素の声を出して、満が小窓にかじりついた。
「森さんまで参加してる。何やってんのよ」
「うわ、本当だ」
 想定外の事態にひとしきり騒いで、肩が触れたあたりで冷静になった。どちらからともなく、窓のそばを離れる。
「満、罰ゲームなんてないよ」
歩夢は、段差になっている部分を降りる満の手をとった。絆創膏のかさついた感触を指先で感じる。歩夢は満との距離を縮め、首のあたりにおでこを埋めた。
「満、ちょうだい」

++++++

 夏帆は相変わらず客席に座ったままだった。
「夏帆ちゃんは参加しないの?」
「りんごちゃんが読んだってことはもう協定を破る気まんまんってことですよ。今更私が行ってもアンコールはもらえません」
「そういう協定になってたんだ」
 アンコールね。夏帆がそこにこだわっている感覚は、正直なところ美咲にはわからない。
「夏帆ちゃんさ、協定の時期を指定した?」
「時期?」
「次回また協定を果たすって、そういうわけにはいかない?夏帆ちゃんが言ったんじゃないか。いいことと悪いことって、現時点で全部精算されてるわけないんだよ」
「誤魔化しです。本当はずっと損してばかりなのに、そういう言葉で誤魔化そうっていうんです」
 夏帆の言葉は、だんだんと自信なさげに、弱いものになった。
「違いますね、私は本当は借金だらけなんだ。りんごちゃんはきっと、私がちゃんと返せることなんて、もう期待してないんだ」
「だからさ、私は協定なんて信じてないよ。全部ギブアンドテイクだって信じて、人付き合いなんかできっこない」
「感情なんて、何もないところから無限に湧いてくるって言ったのは、先輩ですよ」
 暗がりをりんごが歩いてくる。その表情は暗くてうかがえない。夏帆はあっさり席を立ち、ホールを出ようとした。
「りんごちゃんが帰ってくるよ。話していかないの?」
「私がいると、りんごちゃん嫌でしょ?これ以上嫌われたくないんです。それに」
 夏帆は小首をかしげて美咲を見下ろすような姿勢になった。
「先輩、結構落込んでますよ?」
 ふわふわと夏帆の髪が薄闇に溶ける。
「私、自分が矛盾した人間だってのは知ってます。知ってるぶん、先輩より偉いです」
 美咲は頷いたが、暗かったのでそれも夏帆には見えなかったかもしれない。

++++++

 りんごは夏帆が退出したのに気づいたはずだが、それについては言及しなかった。美咲の方でもわざわざそれに触れようとは思わなかった。
「結局私って何だったんだろうな」
「それ、こっちの台詞じゃないですか」
「こっちの台詞だよ。りんごちゃんと夏帆ちゃんの間で欲しいとか要らないって言われて、おもちゃにされてさ」
 りんごは目を閉じて頭の横でまとめた髪をすいた。説教でも始めそうな空気を出しておきながら、目を開くとにやにやと笑う目になっていた。
「思うんですけど、それって、先輩の方が私を求めてたんじゃないですか?」
 照明が一段暗くなり、空気の色を覆い隠した。
「『アイシャ』を読んだら好きになるかもって言ったの、結構本気だったんだよ」
「嘘つき呼ばわりは言い過ぎたと思います。それはそれでかまいませんよ。私の知らないとこでやってもらえれば」
 適当に絵本を手に取って開いてみたが、暗くて中身はろくに見えなかった。
「はじめにりんごちゃんたちがカエルの話をしてるのを聞いたときさ、試しに読んでみたんだよ。昔好きだった絵本を」
 どこからともなく拍手の音が聞こえる。即興で組まれたプログラムにアンコールも何もあるわけがなく、それはただ終わったものに送られる選別でしかない。
「全然駄目。単純に大人になったからなのかもしれないけど、自分が自分じゃなくなったみたいで不気味すぎて、すぐ千鶴に返した」
 壇上には再び千鶴が登っていた。その手にはもう読み上げるべきものはない。
「別に、誰もそんなこと責めたりしませんよ。好きな気持ちも嫌いな気持ちも、誰かのものじゃない」

++++++

 音響操作室には、『蛍の光』が流れていた。閉会の口上を述べる間流すように、千鶴が指定したものだ。
「良いタイミングで止めないといけないから、略式で済ますわよ」
「いいよ。形式ばったの嫌い」
「歩夢はそうよね」
 満がくすりと笑い、歩夢はくすぐったい気持ちになった。満はとっくにもっと大人になったと思っていたのに、急に子供に戻ってしまったようだ。それから満は、咳払いをした。
「仲人、三原満は、姫百合協定の規定にのっとり、牧村歩夢を仲人として認定いたします。また、ただいまを持って、私自身の仲人としての任を解きます」
 明り取りがひときわ激しく光り、すぐ後に大きな音がした。嵐と落雷の中で協定を結ぶなんて、これじゃまるで悪魔の契約だ。

〇エピローグ 新しい協定

 校庭の隅に設置されたビオトープのさらに奥、我らが八ヶ瀬高等学校の校訓が刻まれた石碑が置かれている。平時はほとんど顧みられることもない空間だが、ときたま都合良くその近くに立ち寄る者がある。少なくとも酒匂りんごが牧村歩夢に聞いた限りでは、そういう具合らしい。
 用事があるのは石碑そのものでは無い。その裏にぽっかりと空いた空間だ。歩夢が仲人として立っている姿も、すっかり見慣れた。りんごは小山夏帆と並んで、儀式を進行した。
「私、小山夏帆は、地理の中間テストのため、酒匂りんごの勉強を手伝うことを誓います」
「私、酒匂りんごは今秋開催八ヶ瀬高校にて開催される文化祭において、小山夏帆の成功に尽力することを誓います」
 それから二人は、協定の証を交換した。りんごからは、モミジの模様が刻まれたメダルのキーホルダー。夏帆からはエリオットのマスコット。それが本当はりんごのものであることを知る者は限られている。協定が結ばれてしまうと、りんごはさっさとその場を離れようとした。
「一緒に帰らない気?」
 夏帆の口調は、すでにわかっていることを責めるようなものだった。
「そんなこと協定に入ってないだろ」
 すっと鼻でため息をついてから、夏帆は歩夢に水を向けた。
「歩夢」
「私は仲人だもん。不干渉がルール」
「そのために仲人になったわけ?」
 歩夢が応える前に、別の声が響いた。
「夏帆、ちょうどええとこにおったわ」
 由香が夏帆の背後から現れ、肩に腕をまわした。
「こないだの朗読会な、森智里が記事にするから確認しろって言うねん。悪いけど一緒に来てくれ」
 傍らには千鶴の姿もある。由香と千鶴は夏帆の両脇を抱えて強引に引っ張っていった。後ろ姿でひらひらと由香がピースするのが見えた。あっけにとられてその光景を見つめていたりんごは、深呼吸をしてから歩夢を見て、笑ってみせた。ちゃんと皮肉な笑いに見えているだろうか。
「夏帆じゃないけどさ、便利だよね。仲人の立場」
「このくらいはさせてよ。じゃなきゃあんたらと付き合ってらんないし」
 歩夢は石碑の裏の彫刻を指でなぞった。生徒手帳の表紙と同じ、姫百合の図案だ。こうしてみると、この石碑と周りの石や植え込みはまるで古代の遺跡のようにも見える。
「夏帆、地理得意なんだ。意外」
「本人に言ってやれよ」
「ヤダ」
歩夢はずいぶんと図太くなった。そして、素直になった。りんごはかまわずに、のびをした。
「返さなくていい借り、なんて楽なんだ」
「いや、協定結んでるでしょ。破んないでよ」
 仲人としてもう何度も協定を結んでいるのに、歩夢は赤いリボンの栞紐を仕舞うのにずいぶん難儀している様子だった。
「それは人生の必要経費だから」
「達観してんなあ」
 歩夢の視線を追ってもう一度夏帆達を見る。いつの間にか夏帆は自分の足で立ち、二人に先立ってずんずんと歩いていた。
「ていうか、それは夏帆を受け入れてることにはなんないの?」
「ならない」
「うわ、バッサリ」
 りんごは心の中で舌を出し、生徒手帳を仕舞った。

++++++

 歩夢の見る先で、満の部屋のカーテンが開いた。Tシャツ姿の満が片耳に携帯電話を当てていた。満は困った顔になり、手を振った。歩夢は気味悪く感じながらも、手を振り返した。
「ばか、歩夢じゃないわよ」
 電話越しの声と、窓越しの唇の動きがシンクロした。
「ベランダにいたみさに見つかったのよ」
 思わず顔を歪めた歩夢の様子は、満に見えているだろうか。距離があるので確かなところはなんとも言えない。
「それで、新しい仲人の仕事ぶりはどう?」
「人気だよ。前の人より」
「ずいぶん熱心なリピーターも付いたみたいじゃない」
「まあね。簡単に協定破りをしそうでひやひやしてるけど」
 りんごと夏帆はもう何度も協定を結び、そのたびに同じ協定の証を交換している。それが新しい、あるいは暫定的な二人の関係なのだった。
「森智里さんとはどう?」
「ぼちぼち。あの人のことはいまだによく分からないけど、情報収集には苦労しないよ」
 歩夢はベランダの柵にもたれかかった。はねた前髪を少し冷たい風が撫でる。
「私はいいんだって。満こそどうしてるのさ。仲人辞めてから」
「仕事が減ったけど、それだけ。勉強が進んで仕方が無いわ」
 壁越しに物音がした。姉は盗み聞きを切り上げたらしい。
「適当なところで歩夢か森さんが後継者作ってね。同じ学年で一緒に卒業しちゃうと引き継ぎができないから」
「りょーかい」
 そうしていると、満は実の姉より『お姉さん』に感じられた。

++++++

 ノックの音にドアを開けると、案の定歩夢がいた。
「盗み聞きしてたの?」
「妹と親友のことに、少しくらい関心を持った方がいいと思ってね」
「そういうの、大きなお世話って言うんだよ」
 歩夢は美咲のみぞおちを軽く殴る。具体的に弱いところを殴るのをやめろ。
「満、仲人やめたんだろ。今は誰が仲人なわけ」
「守秘義務があるので答えられません」
 語るに落ちるとはこのことだ。要するに、ただの茶番なのだ。美咲はうすうす事実を知っているし、知っているということは歩夢に知られている。
「どうしても知りたかったら森智里に訊けば?」
 ドアを開けながら、歩夢は振り返った。思い出したようにペラペラとしゃべる。
「お姉さ、文化祭誰と回んの?りんごからも夏帆からも誘われてるんでしょ?」
「それは守秘義務違反じゃないの」
「友達とのおしゃべりに守秘義務なんかないよ」
 歩夢はずいぶん態度がでかくなった。妹はべえと舌を出して、自分の部屋に帰った。美咲はベッドに体を預けて、ショートメールのアプリを起動した。はじめに由香のメールを開く。
『バスケ部がな、文化祭で焼きそばやんねよ。サービスするから来たらどう?』
 話し言葉そのままの文面がどこか可笑しい。続いて千鶴のメールを開く。
『書道部では体験書道を行います。投票によって本年のベストが決定されるそうですよ』
 だったらなんだと言うんだ。して欲しいことがあるならちゃんと言えばいい。美咲は吐息を吐いた。次は夏帆からのメールだ。
 それは文面一つ無い写真だけのメールで、開くと森智里が写っていた。文化祭用のゲートのそばで、入学式よろしく片手でピースサインを作っている。これはもうなにひとつ分からない。それがどこか、夏帆らしくもある。最後にりんごからのメールを開く。
『多少なりかわいい後輩を想ってくれるのなら、囲碁部のカフェに投票してください』
 これは直接的過ぎる。というか、千鶴が書道部であることもりんごが囲碁部であることも、美咲ははじめて知った。
 美咲はため息をついてショートメールを閉じた。何気なくガラス戸の外を見ると、カーテンを閉めようとしていた満と目が合ったように思った。耳の横で電話のジェスチャーをすると、満が少し笑って手を振った。美咲は携帯電話を取りだして、連絡先を呼び出した。
 呼び出し音を聞きながら、美咲は壁のフックにぶら下がるカエルのマスコットを睨んだ。そんな目をするなよ、単なる気まぐれなんだから。


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