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できる、できないの間で

医療従事者の端くれとして、困っている人を助けたいとおもう気持ちは強い方だとおもう。

患者さんが日々自分がどんなに辛いか、大変な思いをしているか、訥々と話されると、なるべく聞いてあげたいとおもう。

患者さんが理不尽な行動を取っても、日々辛い闘病で心が折れそうになっているからではないか?とおもって、のみこむ。

それで時々は、患者さんから、「あなたに話を聞いてもらえてよかった!」と言ってもらえたりして、すっかり人助けをした気持ちになってしまう。

でも、本当にそんなに簡単に相手の辛さなんて分かることができるのだろうか。
病気という状態がない、日頃の人間関係においても、なかなか相手のことを完全に理解できているなんて思えない。

先日読んだ、河合隼雄さんの「心の処方箋」でも、

真の理解などということは、ほとんど不可能に近いほど難しいという自覚が必要である。

と書かれている。

そして、大好きな作家、宮下奈都さんも、「遠くの声に耳を澄ませて」という小説の中でこんなふうに書かれていた。

その人そのものを診ることなど、普段からつきあいのある相手に対してでもむずかしいのに、これまで全く知らなかった人を診るとすれば、その人の生をいったん丸ごと受け入れない限り不可能に近い。

やっぱり、自分が実際にその相手と同じ状況になって、初めて辛さや苦しさが少し分かるということなのだろう。

じゃあ、もう理解できませんから!と突っぱねる?

近しい人に辛いことを打ち明ける。
支えてもらう。

それがなんだか自然の流れのようだが、でも近しいからこそ頼れない、打ち明けられないということはないだろうか。

余計な心配をさせたくない。

巻き込みたくない。

そう思って言えなかったことは私も今までにあった。

だからこそ、例えばSNSやブログなどでその想いを吐露し、会ったこともないたくさんの人たちに励ましてもらったり、助言をもらったり、解決策を一緒に見つけていったりしたのだ。

身内、身近ではないことも、その人を助ける一つの手段になり得るのではないか。

その人から遠いからこそわからないことがたくさんある。

でも遠いからこそ助けられることもある。

わかる。
わからない。

この振り子がゆらゆらと行ったり来たりする中を、患者さんも、我々医療従事者も漂っているのかもしれない。

もしかしたら大海原の中で掴める、か弱いロープのような存在にしかなり得ないかもしれないし、
大きくて頑丈な船にもなり得るかもしれない。

決して自分がいつも後者であると思い込むことなく、
もしかしたら自分が少しでも助けになれることがあるかもしれない、という謙虚な姿勢で臨みたい。

そのあわいで、苦い、辛い、もどかしい思いをすることになったとしても、手を差し伸べてゆくことしかできない。

また私も、きっと身近な人だけでなく、このnoteの住民の方を含め、会ったことのない方に沢山助けられながら。

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