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論語で学ぶイノベーティブマインドー能楽師・安田登氏講演ー

2020年最初のCONCEPT BASE Shibuyaでのイベントは、下掛宝生流能楽師 安田登氏をお迎えした「論語で学ぶイノベーティブマインド」(一般社団法人ビジネスモデルイノベーション協会主催)。2/9(日)に行われる『ビジネスモデルオリンピア2020〜アートがひらくイノベーション』のプレイベントとして開催されました。

CONCEPT BASE Shibuyaに設えた能舞台がその本領を発揮。笙の演奏者もお越しくださり、講演の最後を夏目漱石の夢十夜の第一夜を笙で語っていただくなど、とても贅沢なひとときとなりました。(文・片岡峰子/写真・小山龍介)

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伝統と初心

能のキーワードは「伝統と初心」です。能はこのふたつが内在しているがゆえに650年もの長きに渡り続いてきました。「伝統」とは、天才に依存しないシステム。だれでもが継いでいける、いわばサステナビリティ。そして「初心」。これが、イノベーティブマインドです。

論語の伝統は「述」。この漢字には辶がついています。これは道という意味です。前の人のやったことについていく、という意味。これもサスティナビリティですね。

さて、「初心」がイノベーティブマインドだと申しましたが、漢字を見てみましょう。「初」=衣と刀です。どんなに美しく高い布地にもハサミをいれなければ着物はできません。能の装束も、何百万円もする布地にハサミをいれてつくります。変化を起こすときには、過去の自分を切り捨てなさい、という意味です。人生のさまざまなときどきにおいて。たとえいくつになろうとも。

身体化されたイノベーティブマインドが起こすイノベーション

能は650年の間に、わかっているだけでも4回のイノベーションを起こしてきました。たとえば、いまはこんなふうにゆっくり謡います(実演)。ところがこんなにゆっくりになったのは、江戸時代の初期です。突然こんなふうにゆっくりになったんです。それまでは、おそらく今の2〜3倍のスピード、ラップみたいだったんですね。それがある日突然、今のスピードに変わった。

その突然の変化が可能だったのは、能楽師がイノベーティブマインドを身体化しているからにほかなりません。

能楽師は師匠について稽古を始めます。私の師匠は厳しいひとで、一日8時間の稽古をされたこともあります。夏場なら終わったときにベルトが(シャツじゃないですよ)絞れるくらい汗をかきます。

そのくらい厳しい稽古を積んで、あるとき、師匠に「この演目をやりなさい」と言われます。それが、いまの自分にはとても太刀打ちできるレベルではないほどの高い技術が求められるものです。そうなると、もう先生は教えてくれないんです。自分でなんとかしろ、と。これを といいます。

私も経験があります。自分で稽古して吐く。ひとからしごかれて吐く、ということはありますよね。しかし、自分で自分を追い込むことはなかなかできない。体が先に拒否します。それを乗り越えてまで稽古できるようになって初めて求められるレベルに到達する。

そうやって過去の自分を切り続けていく癖をつけているのです。癖になれば安心して過去の自分を切り捨てられるマインドが養われる。この仕組を遺伝子のように内在させていくことで、能は、必要とあらば突然変わることができるのです。

いま、私は64歳ですが、いまの私と、3歳のときの私は、見た目はまったく違います。しかし、安田登であることに違いはありません。外から見るとまったく違うが中身は同じ。なにか重要なものが残っている。これを続けていくのが初心。そしてそのベースに伝統があります。

四十にして惑わず=自分を区切らない

論語はもっと長いです。孔子が活躍したのが約紀元前500年。いまの論語は紀元前90年代に書かれたものですが、孔子が生きていた時代にはなかった漢字が使われています。

「四十にして惑わず」この「惑」という漢字は孔子の時代にはありませんでした。あったのは「或」。この字は、戈(ほこ)で区切るという意味。土偏をつけると地域の「域」。囲うと「國」。つまり、四十くらいになると、自分を区切りたがる、じぶんはこういう人間だと限定したがる。しかしそれをしない、というのが「四十にして或(くぎ)らず」です。四十になったらいろいろなことに興味を持って、さまざまなことに挑戦する。

知識の獲得なしにイノベーションは起こせない

クリエーションとイノベーション。このふたつは似ているようで、実は大きく意味が違います。クリエーションはヘブライ語で「バーラー」という動詞、「神は天と地をつくった」というときの「つくる」にあたります。バーラーという動詞の主語は「神様」しか使えません。ひとがつくる場合には「アサー」という動詞を使います。そもそもひとはクリエイトすることができないんですね。

クリエイトとイノベート。意識の持ち方が違います。クリエイトの場合は、つくることに意識が向いています。イノベートは、知識を入れるところから始まります。ここにもっとも意識を集中させるのです。知識の獲得なしに、言ってしまえば、大した知識もなく考えようとするからイノベーションが起こらない。

アインシュタインの相対性理論ですら「物理学」がなければ到達できなかった。どんなすごい思想家も心理学者もイエス・キリストを、釈迦を、孔子を超えていません。

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温故知新が孔子の時代のイノベーション

「温故而知新」子曰はく、故きを温めて(而)新しきを知る。以て師と為る可し。

温故知新、これをできるひとが世の中のリーダーとなれ、という意味です。温故知新の温。右側のつくりのうえの日は本当は囚と書きます。手足も伸ばせないような独房に押し込められたときの精神状態に違い。出口も見えず閉じ込められて手足も伸ばせない。これが温の状態。近いのは、ぬか床です。発酵状態をじっと待っている。かき回しすぎてもだめだし、かき回さないとだめになる。

温故とは、古いもの=既存の知識、本、過去の実績……それらをどんどん頭に入れてずっと考え続けること。ぬか床に漬ける。あるいは、鍋にいろんなものを入れて、ぐつぐつぐつぐつ煮る。知識を入れずに煮込むのは水をぐつぐつ沸かしているのと同じで、それではなにも起こりません(笑)。なにをいれるか、非常に重要です。

さて、ぐつぐつぐつぐつ煮ていると「知新」が起こります。この「知」は孔子の時代にはなかった漢字です。それでも論語の中にはこの漢字がたくさん出てきますので、重要な概念であったに違いないでしょう。

「知」という字がなかったら、では孔子は何の字を使っていたのでしょう。おそ
らくは「知」の左側の「矢」だと思われます。「知」と「矢」は音も似ています。
この「矢」が飛んで来て地面に突き刺さったことを表す漢字があります。「至」
です。「至」とは、今までそこになかったものが突然、現れることをいいます。なにかが突如として出現する。「知」というのはこういう精神活動のことを示しています。

「新」を分解すると、立・木・斤。立(辛)はシンという音を表します。新は、木を切った断面のこと。「あぁこんな切り方があるんだ」というまったく新しい切断面が「新」です。今までだれも考えつかなかった知見や方法です。

まったく新しい木の切断面をつくるには、温故が必要なんです。そして、実は人間にできるのはこれだけです。多くの発明がそうですが、だれもが当然だと思っていたものを「あぁこんな使い方があるのか!」と言わせしむるもの。

人類最初の「新」のひとつは、たとえば、家畜を自分の手足として使ったことです。すごく速く走る馬がいる。あぁあの馬を自分の足として使ったら…、と。家畜を人体拡張ツールとして使った、それが最初の温故知新でした。

「而」がもつ重要な意味

古典の授業で「而は時間の経過を現す置き字ですから気にしなくていい」と教わった方も多いかもしれませんが、この字は重要です。論語に無駄な字はないんです。

人によって説が分かれますが、而の字を逆さまに見て、巫女の髪の毛だという説。能に出てくる、髪が逆立った女性(逆髪:さかがみ)は天皇の娘で狂気のひと、神がかりです。この字の横に口がついて、神様のことばをひとに話す役割。これが若という字になる。これはもともと「諾」という文字です。

加藤常賢先生は、これを髭だとおっしゃった。ハウルの動く城にも出てきますね。少年が魔法使いになるときにひげをつける。また、水草という説もあります。

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このように「而」には、時間の経過とともに、魔術的なニュアンスがあるんです。

スポーツや音楽、語学の勉強をされた方には経験があると思います。どんなに一所懸命やってもぜんぜん成果が見えない。でも、あるときふと、バーンと成長していることがある。脳神経学に携わる方に聞いたのですが、人間の脳は案外デジタルだというんです。この域にいくまでは変化が認識できない。この認識できないいったりきたりが、ぐつぐつぐつぐつ煮ている時間。あるとき突然、パーンと出現する。「而」は、この時間を表すとても重要な字です。

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脳が認識できないところで起こっていること

ユングが無為な時間がとても重要だと言っています。多くのクリエイティブな人々は、一見なにもしていない時間を持っている。ユング自身にも地下室に閉じこもることがあった。そこではなにもしていないように見えて、内側では「ぐつぐつぐつぐつ」が起こっている。

この時間がどのくらいかかるのかは、なにを見つけようとしているかその大きさによります。5年、10年、下手すると半生かかるのかもしれない。

能も年をとってから突然うまくなる人もいるんです。でも運悪く90歳で芽を出すはずのひとが89歳で死んでしまったら……来世に期待する。そのくらい気長な話です。

イノベーティブ・サイクル 「学」→「思」→「而」→「知」→「行」

さて「温」「故」「而」「知」「新」、この四文字がイノベーションの過
程を示す文字です。しかし、この文字を知ったからといって誰でもがイノベーシ
ョンが可能だというわけではありません。イノベーションを起こすことができる
人はイノベーティブ・マインドを身体化した人です。

ですから、「温故而知新」をしたあとに行動を起こすことが大切です。

「温故而知新」を具体的に行うために、「温故」を「学」と「思」に分けてみま
しょう。そして、それに行動の「行」を加えた…

「学」→「思」→「故」→「而」→「知」→「行」

これがイノベーションの具体的な過程、イノベーティブ・サイクルです。

イノベーションと言っても最初から大きなことを望む必要はありませんし、望ん
ではいけません。このイノベーティブ・サイクルを日常化させ、小さなイノベー
ションを繰り返す、それによってイノベーティブ・マインドを身体化することが
大切なのです。。

「學」の冠の上の左右は「手」、その手の間の「✗✗」は「真似する」という意味です。「学ぶ」は「コピー」が近いと思います。コピーの語源は、いっぱいなものを共にする、つまり大きな物を自分と一体化すること、なんです。

✗✗と子、その右にムチを持つ手をおくと、これが教えるという字になります。「学」も「教」も。身体的にかなりきつい状態ですね。すずめの学校の先生も「ムチをふりふりちーぱっぱ♫」ですよね。

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知識を頭で知るのではなく、身体化するのが学。温故は身体化された知識だからこそ煮詰めることができるんです。

「学」コピー。

「思」問を発し続ける。これはいまのところ、AIにはできないことです。

「而」ぼんやりする。

「知」出現を待つ。

「行」新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければならない。初心忘るべからず。

身体化する知恵とクラウド化する知恵

中国では紀元前1300年、メソポタミアでは紀元前3000年頃に、文字が誕生したと言われています。この文字の出現が人類にとってのひとつの大きなシンギュラリティではないかと思います。もしいま、文字がなくなったら、いったいわれわれはどのくらいのことを覚えていられるでしょうか? 文字を獲得することで、記録できるようになり、その分余裕ができた脳で、ほかの新しいことをすることができるようになりました。まさに文字は脳の外在化ツールです。

脳は、余裕がないと新しいものを入れることができません。友だちの携帯番号覚えているひといますか? いま、記録はクラウド化されています。AIの登場で、さらなる脳の外在化ツールを手に入れようとしています。

さらに余裕ができると、なにか新しい精神活動が生まれます。これがイノベーション。ここで注意しなければならないのは、知恵が身体化されていないと温故が起こらない、ということです。ですから、私たちは身体化する知恵と、クラウド化する知恵をきちんと分けることが必要です。どう分けるかは、人によって違いますから、なにを身体化するか、クラウド化するか、きちんと意識して選ぶということが大切です。

もっとも大切なのは行動

イノベーティブ・マインドを身体化するためにもっとも大切なのは「行」、すな
わち行動です。

『論語』には、君子の特質として「コトバは訥々としているが、行動は敏であ
る」と書かれています。

「敏」にはふたつの意味があります。ひとつは「早い」こと。もうひとつは「美
しい」こと。

いいと思ったら、なるべく早く行う、それが「敏」のひとつです。

孔子の弟子の子路(しろ)は、先生から聞いたことで、自分がまでできていなこ
とがあるうちは、新しいことを聞くことを怖れたといいます。行動もしないうち
に新しい理論や考えばかり入れると、頭でっかちになってしまいます。そういう
人いるでしょ(笑)。誰それがそういっている。新しい理論ではこうだとかばか
り言う人。

しかし、すぐに行えばいいというわけではありません。

実は、その子路が孔子に「聞いたらすぐに行動するのはいいことですか」と聞い
たことがあります。すると孔子は「お前には父も兄もいるだろう。そういう人の
ことも考えなさい。すぐに行動するのはよくない」と答えました。

ところが、もうひとりの弟子、冉有(ぜんゆう)が同じ質問をしたときには、孔
子は「すぐに行動をしなさい」と答えました。

それを聞いていた公西華(こうせいか)という弟子が、孔子の答えが違うのを不
思議に思って孔子に尋ねたところ、「冉有はふだん消極的だから、すぐに行えと
言ったのだ。子路はふだんから人をしのごうとするから、それをおさえたのだ
よ」と答えたのです。

マニュアルはありません。人によって違う、それが孔子の教え方です。

さて、「敏」にはもうひとつ「美しく行う」という意味があります。

ただ、行えばいいのではない。丁寧に、美しく行う。それも大切です。

素早く、しかし丁寧に行う。それがイノベイティブ・サイクルの「行」です。

今日、覚えていただきたいことは、「温故知新」「学問を身体化すること」「身体化とクラウド化を分けること」「ぐつぐつ長い間煮込むこと」「問を発し続けること」「ぼんやりすること」「素早く、丁寧に行うこと」。

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安田登(やすだ のぼる)
下掛宝生流能楽師
能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演も行う。また、日本と中国の古典に描かれた“身体性”を読み直す試みも長年継続している。著書に『異界を旅する能』『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。』『能―650年続いた仕掛けとは』他多数。

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未来のイノベーションを生み出す人に向けて、世界をInspireする人やできごとを取り上げてお届けしたいと思っています。 どうぞよろしくお願いします。