「K-POP」や「マインクラフト」から民主主義を考えてみる|若林恵『実験の民主主義』あとがき
新しい時代には、新しい政治学が必要である──。政治思想史の大家である宇野重規と黒鳥社の若林恵による縦横無尽の対話から、民主主義の未来を見いだす『実験の民主主義:トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』。刊行に先駆け、若林が本書に寄せたあとがき「聞き手をつとめて」を特別公開。
Cover Photo: 「マインクラフト」の3D世界
Iurii Vlasenko / Alamy Stock Photo
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聞き手をつとめて
日本を代表する政治思想史の大家、宇野重規さんの聞き手をつとめ、何とか本書を出版することができたとはいえ、心のなかの不安が柔らぐことはない。
お察しの通り、私は政治学の専門家でないどころか「民主主義」についても専門的な知識を持ち合わせていない。テクノロジーメディアに携わっていたことから、少しばかりデジタル社会を語れたとしても体系的と呼ぶにはほど遠い。(あえて言うなら)分野の権威である宇野さんの聞き手として民主主義を語り、中公新書のような知の殿堂に列せられるのは、本来ありえないことだし、あってはならないことだ。
とはいえ、政治をめぐる視野、思考、言説が、「権威」や「本来性」に囲いこまれて可動域が狭まってしまっているのであれば、それらをいったん解除し、門外漢の立場から「政治はかくあるべし」という思い込みをほぐすことができるのではないかと考えることは許されるはずだ。そう自分を説得してこのプロジェクトに参加したものの、正直内心不安だった。
本書のなかで、宇野さんは、現代の学生が「自分には政治に参加する資格がないと感じている」と漏らしている。「政治」や「民主主義」、あるいは「市民」といった言葉が、それだけで人を気後れさせ、遠ざけ、ときに嫌悪や憎悪を催させるものになっていることは実感的に想像できる。そうした心理を、反知性的、反啓蒙的と批判することは間違ってはいないだろうし、言われた側もそれを認めることはやぶさかではないだろう。ただそうした批判は、私のような「サボりたい有権者」を覚醒させるというよりは、かえってそこから遠ざける悪循環をもたらしてしまう。
宇野さんのもとで学ぶ学生たちが、「政治参加」を語るにあたって「資格」という言葉を使ったことはあらためて重要だ。本書内で宇野さんが簡潔に振り返ってくださった通り、民主主義の歴史はまさに「選挙の参加資格」をめぐって推移してきた。当初貴族の男性だけに限られた参加資格は、時代がくだるなかで、商人、賃金労働者、女性、有色人種、消費者へと拡大され、20世紀の後半になると、「大体みんな」がそこに包摂された。つまり、満18歳という障壁以上の参加資格は本来存在していないはずだが、にもかかわらず、学生たちはそこに資格のバリアがあると感じている。
学生たちが感じるこうした気後れは、きっと、宇野さんの聞き手として民主主義について語ることへの私自身の気後れと通じている。私の場合、その気後れは参加資格の有無が「リテラシー」を基準に判定されているという感覚に由来し、その根源には「頭が悪いと思われるのではないか」という不安がある。バカだと思われたくないから遠ざかる。といって、黙って引き下がるのもなんだか悔しい。そこで私なりに抱くようになったのは、「いったいこの世はいつからこんなに「リテラシー重視」なのか」という苦しまぎれな問いだった。
本文中でも触れた通り、この問いを考える手がかりを授けてくれたのが、宇野さんの『民主主義のつくり方』だった。私は、宇野さんが語った「ルソー(意志)」から「プラグマティズム(実験)」への転回を、台湾のITデジタル担当大臣オードリー・タンさんが語る「リテラシー(知)」から「コンピテンシー(行為)」への転回と重ね合わせ、そこに積年のコンプレックスを晴らす道筋だけでなく、デジタル社会を動かしているかもしれない「趨勢」を読み解くヒントを見出した。
ソーシャルメディアでの醜い攻防や、YouTube やTikTok にアップされるばかばかしい動画、ユーチューバーに憧れる子どもたちは、「意志・知・リテラシー」という観点から見れば、たしかに愚かにしか見えない。ところが「実験・行為・コンピテンシー」というフレームから覗のぞき直してみると、そこにまったく別の意味や価値が存在しうることが見えてくる。もちろんリテラシーからコンピテンシーへの転回がただちに良い民主主義をもたらすわけではないが、それでも思考のフレームを変えてみることで、硬直した現状認識を揺さぶることはできる。
そうやってあらためてあたりを見回してみると、例えばK-POP ファンの「推し活」にも積極的な意味を見出すことができそうに思えてくる。田中絵里菜(1989~)さんの『K-POP はなぜ世界を熱くするのか』(2021年)を宇野さんの『トクヴィル』と引き合わせてみたら、「ファンダム」と「アソシエーション」が自分のなかで一つの像を結んだ。
「K-POP」あるいは「マインクラフト」などを題材に、これってアソシエーションじゃないですか? プラグマティズムじゃないですか? 実験の民主主義じゃないですか? 私は宇野さんに問うてみたくてならなかった。
そんな渇望から生まれた本は、必然的に、本というものをリテラシーの産物としてではなく、コンピテンシーを紡ぎ合わせることで何かが生成される場として捉えることを求める。「思考すること」を上から下への「伝達」ではなく、双方向的かつ協働的な「行為」として実行すること。対話を一つの実験として遂行すること。かくして本書は、およそ3時間ずつ6回、約20時間にわたる宇野さんと私(と、ときに中公新書編集部の胡逸高さん)の対話をもとに生成された。基本的な事前プロットはあったものの、いずれの対話も、暗中模索の果てにたどり着いた場所に自分たち自身が驚くようなものとなった。
いうまでもなく、対話をドライブし、道筋を見出してくださったのは、宇野さんの膨大な知識と精緻なロジックだ。私が放ったビーンボールを見事に打ち返し展開する、宇野さんの知性のしなやかさに、きっと誰もが舌を巻くはずだ。だが本書の価値はそれだけではない。権威や資格をいったん脇に置いて、不安定な対話に身を晒してくださった宇野さんと胡さんの勇気こそが本書全体の価値を支えているのだと、ここでは力説しておきたい。
「シェア」が「みんなで持ち寄る」ことなのであれば、宇野さんが持ち寄ってくださったものはあまりに多く、私はそれにフリーライドするばかりで恥ずかしい限りだが、門外漢ながら持ち寄れるものは持ち寄ったつもりだ。宇野さんは、私がテーブルに置いた見劣りする食材を、却下することも否定することもなく、そこからどんな料理を生み出すことができるのかを丹念に実験してくださった。その姿勢に、「実験としての民主主義」にこの世界の未来を懸ける宇野さんの強い思いを感じては、身震いするばかりだった。
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