冬至とクリスマスは太陽神の再生を祝う
あっという間に2023年もあと2週間足らず。でも、西洋占星術では春分を1年の始まりとしているので、占星術的には2023年度はまだ3か月あります。
12月22日の日本時間12:27分に冬至を迎えます。
北半球で、1年間で日の出から日没までの日中が最も短くなる冬至ですが、西洋では太陽の力が最も弱まった日が無事に過ぎ、太陽神ソル・インヴィクトゥス(「不敗の太陽」の意味)が復活すると考えました。
古代ローマ暦では、12月25日が冬至の日だったそうです。
西暦274年、ローマ皇帝アウレリアヌス帝(在位270年 - 275年)は、この日をソル・インヴィクトゥスの誕生日であるディエス・ナタリス・ソリス・インヴィクティ(Dies Natalis Solis Invicti)という祭日に制定したと言われています。
太陽神ソル・インヴィクトゥス
ソル・インヴィクトゥスは、第23代皇帝ローマ皇帝で破天荒な皇帝と言われたヘリオガバルス帝(在位218年 - 222年)が、シリアからローマへもたらした太陽神エラガバルスElagabalusの信仰に由来しています。
エラガバルスは、シリアのエメサ王朝で崇拝されていました。エラガバルスはアラビア語の「Ilah al-Jabal」(「إله الجبل」)のラテン語化された形で、「山の神」(ilāh(神)とjabal(山))という意味です。
シリアでは、エラガバルスは黒い石の形で崇拝されていました。
ヘリオガバルス帝は、エラガバルスの大祭司ジュリアス・バシアヌスの孫で、バシアヌスはエメサ王家の一員でした。
ヘリオガバルス帝も太陽神エラガバルの神権に対する世襲の権利を有していたので、シリアからエラガバルスの黒い石をローマに運んだようです。ヘリオガバルス帝は、パラティーノの丘にエラガバリウム神殿を建設し、自身が司祭を務めました。
崇拝の石バエティルス
エラガバルスの黒い石は隕石で、バエティルス (バエチル、ベテルベット) と呼ばれ、古代の情報によると神へのアクセスを与えたとされた神聖な石です。
旧約聖書では、ヤコブがベテル (「神の家」の意味)で、石を枕にして眠ったときに「梯子」の夢を見たことが書かれています。この時の石もバエティルスだった可能性があります。
ミノアの宗教では、バエティルス(石)をこすったり、横になったり、眠ったりすると、神の幻影が召喚されることが示唆されています。
ギリシア神話では、クロノスが幼い息子ゼウスと間違えて飲み込んだ石もバエティルスで、それがデルフィのオンパロスだったとも言われています。
多神教の社会であったローマは宗教に寛容であり、領土拡大にともない各地の土着神を受け入れていました。
建国後まもなくからローマでは太陽神としてソルが知られ、ペルシャの太陽神ミトラスを奉ずるミトラ教も信じられていました。
ヘリオガバルス帝は、ローマの太陽神信仰の流行を好機ととらえ、シリアの太陽神エラガバルスを「デウス・ソル・インウィクトゥス」と尊称させ、天空神ユピテルをも従える存在としたそうです。
ソル・インヴィクトゥスとキリスト教
222年にヘリオガバルス帝が暗殺された後はエラガバルス崇拝は影をひそめるのですが、西暦274年12月25日に軍人皇帝時代のローマ皇帝アウレリアヌス帝が正式な信仰として復活させたと伝えられています。
アウレリアヌス帝について少し書いています。
ソル・インヴィクトゥスは以後の皇帝たちにも支持され、コンスタンティヌス1世(大帝)の治世の最後まで続きました。
コンスタンティヌス1世は、ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物とされていますが、実際のところキリスト教に改宗したのは亡くなる直前だったそうです。
当初はキリスト教を政治に利用するのが目的だったようですね。詳しくは別記事で。
コンスタンティヌス1世は、313年に「ミラノ勅令」を発し、キリスト教を公認したそうですが、現在の研究では疑問視されています。
母ヘレナがキリスト教徒だった影響もあり、コンスタンティヌス1世はキリスト教に好意的でしたが、当時はまだ非キリスト教徒が多かった時代です。
民衆はコンスタンティヌス1世をソル・インヴィクトゥスに例えて称賛することが多かったようで、コンスタンティヌス1世もウケが良いソル・インヴィクトゥスを手放すわけにいかなかったかもしれません。
コンスタンティヌス1世の治世(在位306年-337年)の後半には、教皇領の寄進や十二使徒のペトロの墓所にサン=ピエトロ教会の旧聖堂を建てるなど、キリスト教の発展と拡大に寄与しました。
バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の地下深く、古代ローマの共同墓地・ネクロポリスがあります。
そこは主には非キリスト教の墓が多いそうですが、キリスト教徒の墓もあります。(使徒ペトロの墓があったとされているが異論もある)
そのネクロポリスの壁画に、ソル・インヴィクトゥス風のキリストのモザイクが発見されています。(果たして本当にイエス・キリストなのか?)
古代ローマではやはりソル・インヴィクトゥスの人気が根強く、キリストとソル・インヴィクトゥスが同一視されていたようです。
古代ローマの祭りと冬至とクリスマス
クリスマスは、古代ローマのサトゥルナーリア祭(Saturnalia)に由来していると言う説があります。
サトゥルナーリア祭は、ローマ神話の農耕の神サトゥルヌス(英語ではサターンSaturn=土星)に敬意を表した国家の祝祭でした。
もともとは12月17日(ローマ暦およびユリウス暦で)の1日だけ開催されていましたが、非常に人気があったため12月17日から12月23日まで延長されたそうです。
ローマ人はサトゥルヌスを、ローマ帝国以前のイタリア全土の初代王と信じていたそうです。
サトゥルヌスは正義と慈悲の王として君臨し、農業を教え、法律を与え導き、サトゥルヌスが統治していた時代は農業と文明が栄えた黄金時代だったとも信じられていました。
サートゥルナーリア祭の始まりは、紀元前217年ごろ第二次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)でカルタゴにローマ軍が惨敗した後、市民の士気を高めるために催されたと言われています。
公式の行事のほかに、各家庭では奴隷も一緒になってサトゥルナーリア祭りの期間だけの「サトゥルナーリアの王」(Saturnalicius princeps)の王を選び、その王はお祭り騒ぎを主宰しました。
解放奴隷が被るフェルト製のピレウス帽を誰もが被り、奴隷とその主人がこの期間だけ社会的役割を入れ替え、奴隷も宴会に加わり、宴会の給仕を主人が務めることもあったそうです。
ピレウス帽は解放された奴隷が着用していたので、ローマ人の間ではピレウス帽は自由の象徴でした。
クリスマスの三角帽子は、ピレウス帽からの発想かもしれませんね。
サトゥルナーリア祭では、奴隷は休暇を取ったり、一張羅をを着たり、賭博をしたり、公共の場で酔っぱらうことが許されました。
市民はローマの礼装トーガではなく、カジュアルでカラフルな服装を着用したそうです。また女性が男性に扮し、男性が女性に扮する役割の逆転もありました。
ローマ史上最も陽気な祭りだったそうで、詩人カトゥルスはサトゥルナーリア祭を「最良の日々」と記しています。友人を訪問し、贈り物(特にロウソク や陶製の小像 (sigillaria))をしあう時だとカトゥルスは述べています。
古代、冬至は太陽または太陽神の象徴的な「死と再生」と見なされていたので、冬至の日には死と再生の神々や「逆転」「生まれ変わる年」の到来を祝いました。
サトゥルナーリア祭で、奴隷と主人の立場が入れ替えられたのも「逆転」にちなんだのでしょう。
サトゥルナーリア祭の間は、フォロ・ロマーノのサトゥルヌス神殿に保管されているサトゥルヌスの像の脚を縛っていた亜麻布が解かれたそうです。
そして、レクティステルニウムという、まるで神が参加しているかのようにサトゥルヌスの像がゲストとして出席する宴会も行われたそうです。
これも、拘束からの解放という「逆転」の意味なんでしょうね。
そんなふうに一時的とはいえ立場の逆転に見る社会秩序の逆転現象が、サトゥルナーリア祭の重要な局面でした。
サトゥルナーリアの習慣の 1 つで、クリスマスの習慣によく似ているのがプレゼントを贈り合うことです。最終日 (12 月 23 日) はシギラリア (「小さな置物の日」という意味) として知られており、人々は木、テラコッタ、または蜜蝋で作られた簡単な置物を互いに贈り合ったそうです。
cereiと呼ばれたロウソクを贈り合ったという記録もありました。
5世紀の帝政ローマ末期の作家マクロビウスの著作『サトゥルナリア』の解釈では、サトゥルナリアは冬至につながる光の祭典であり、ロウソクは知識と真理の探求を象徴していると記されているそうです。
サトゥルナーリア祭の人気は紀元3~4世紀まで続きましたが、ローマ帝国が392年にキリスト教を国教としたため、サトゥルヌス神などローマ古来の神々はみんな「異教の神々」となって禁じられてしまいました。
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しかし、人々の一年に一度の楽しみだった「サトゥルナリア祭」は、キリスト教社会になっても受けつがれ、クリスマスや新年を取り巻く季節の祝祭に再構成されたり、少なくとも影響を与えたと考えられます。
12月25日はイエスの誕生日?
4世紀に第35代ローマ教皇ユリウス1世(在位337年 - 352年)が、12月25日をキリストの誕生日に制定したと言われています。
聖書には、イエス・キリストの誕生日の記述はありません。
受胎告知を春分の3月25日としたため、それからちょうど9ヶ月後にイエスが誕生すると辻褄が合うわけです。
現在は、クリスマスはイエスの誕生日ではなく、「降誕を記念する祭日」と位置付けられています。
あるいは、274年に皇帝アウレリアヌスが「12月25日をソル・インヴィクトゥスの生誕日と宣言」していたため、教皇ユリウス1世はキリスト教への改宗者が同じ日に祝い続けることを許可することで、より多くの改宗者をキリスト教に引きつけることができると考えたとも考えられています。
要するに中世までのキリスト教が得意としていた異教の祭事の取り込みですね。それによって異教徒はキリスト教に改宗しやすくなります。
このようにソル・インヴィクトゥスやミトラ神など、古代の太陽神の祭日をキリスト教が利用したわけですね。
英国オックスフォード大学の教会史教授であるディアメイド・マカロック氏は「イエスの誕生日として12月25日を選んだことは、聖書とは何の関係もありません。むしろ、世界の光としてのキリストの役割を象徴するために冬至を使用することは、非常に意識的かつ明確な選択でした」とBBCニュースに語りました。
私は、ナザレのイエスはいたかもしれないが、キリスト教会が言うイエス・キリストはいなかったと思っています。
占星術的にも、1年を読み解く上で「春分、夏至、秋分、冬至」は重要な日です。1年間の全体的な予測は春分図で行いますので、冬至では翌年1月~3月までの運気を予測します。
「12月の星の動き」の記事で冬至図をざっくり読みましたので、よかったらご覧ください。詳しくはまた別記事を立てたいと思います。
今日はこのへんで。お読みくださりありがとうございました。
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