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新しい国家(2)ただいま

 ごうううんごうんごうんごうん。ミシカの上で下で傍らで、つねに唸り続けているそれらを、管理者と呼ばれるミシカたちは、ドラゴン、と呼ぶ。ドラゴンの管理は、いま、ミシカの生きるための糧を得る作業だった。起きてから寝るまでが一日で、寝るだけの時間が取れるときが寝るタイミングだった。工場のなかはどこもこうこうとあかるいのになぜかとても暗いように思える。ドラゴンばかりがこうこうと照らされ、工員たちはちっぽけな影のようにうごめいている。ドラゴンの機嫌を取り、餌を与え、彼らが生み出す諸物の品質を確認し、定期的にドラゴンのあらゆる穴の中、ことにその長い喉にもぐりこんでメンテナンスを行い、そうして条件が整えば、言い方を変えれば運が悪ければ、死ぬ。

  管理者は自分自身の欲望をもう忘れていた。あるいは欲望は塗り替えられていた。目の前にドラゴンがいて、それがあるべき姿であること、あるべきとされている姿であることが、彼らの生きる意味だった。ドラゴンの餌と人間の餌は共有できないという点に、ドラゴンが優先され人間である管理者たちはドラゴンのために生かされているのだという差異があらわにされた。管理者はドラゴンの生産物のなかから栄養素を指定通り仕分け、仕分けた栄養素を無感動に口にした。それは食べなければパフォーマンスが下がるという理由で口にされているものに過ぎなかった。彼らはもうそれ以外の意味での食べるとはなんのことだか忘れていた。眠ることもおなじで、寝床にたどりつくことができれば泥のように眠るというだけで、そうしてドラゴンの咆哮を聞くと、飛び上がる、服を脱ぎ着する手間が惜しいから彼らはもうずっと服を脱いでいない、洗濯も、入浴も、彼らにとっては縁遠い話だったので、彼らは自分たちの体臭にさえ気づかなかった。あらゆる意味でドラゴンは管理者を制圧しており、管理しているのが管理者であるということは全くかかわりがなかった。結局工員たちはドラゴンに食べられた。そしてミシカは、そのことにこそ魅せられて、工場にいた。ドラゴンの胎内でミシカの生涯が幕を閉じるというのは、ありうべき美しい物語ではないか。美しく、残忍な。

  すべては靄がかかった遠い物語のようだ。

 ドラゴンだけが本当で、だから目の前にいるものも、たぶんドラゴンなのだろうと、ミシカは思った。

「ドラゴン」

「ドラゴン?」

  交代要員が来る。ドラゴンに食われないように、ドラゴンから隔離された場所に用意した寝床へたどりつく。寝て、起きる。走り出す。そうしてドラゴンのもとに辿り着く必要は、しかし、いまはなかった。

 こうこうと明るいのに暗く思える工場の無個性な一角に、少年、少年のように見える小さな体が立っている。

 人間のようなかたちをしたドラゴンだとミシカは思う。ドラゴンにはいろいろなかたちがあるから、人間のようなかたちをしたものがいても、不思議はない。そもそもドラゴンは人間に似通っており似通った点を同じ名称で呼ぶと既に述べている。ドラゴンをドラゴンたらしめる外観はうろこであり、それさえ有していればどれほど人間に似ていてもそれはドラゴンであり、だから管理者はうろこを磨く。それが人間ではないと確認するために。

 目の前にドラゴンを目視して、立ち止まったミシカを、工員仲間のひとりが振り返りかけてしかし足を止めず声も立てずに走り去った。なぜだ、とミシカは思う。ドラゴンはここにいるじゃないか。どうしてみんな、立ち止まらないんだ。

  仲間たちが走っていくなかで、その日ミシカはイレギュラーだった。

  なかでも光るうろこ。

  工場の中でドラゴン以外の存在がすべて暗がりに落ちて見えるのは、ドラゴンのうろこがぎらぎらと光を反射して光るからだ、そうミシカは思う。鏡と鏡が光を反射し合い、その光はかぎりなく増大してゆく。

 そうして目の前にいる少年もまたぎらぎらと光ってまぶしかった。鏡だ、とミシカはようやく気づいた。うろこではない。少年は鏡をこちらに向けて立っているだけだ。うろこはつまり鏡であるから、ドラゴンのように見えたのはそのせいだった。ぎらりと光る鏡の光をまっすぐに向けられて、ふと少しだけミシカは感情を覚えた。すべて終わってしまいつつあるミシカの胎内で、感情が少しだけ動いた。怒り、あるいは、それに似た、何か。何かを。

「ドラゴンなんて詭弁だ」

  少年は言った。

  ミシカは、喉が小さく、息を漏らす音を聞いた。それは悲鳴に似ていて、それは、ミシカが立てた音だった。 

「そうじゃないか? ミシカ」

  鏡を手に持った少年が立っている。

  顔の前に鏡を掲げて、そこにいるのは、ミシカより小さな体を持った、少年、少年だということを、ミシカは知っている。ミシカにとってそのすがたかたちはなじみ深いものだった。ドラゴンよりずっと。どうして気づかなかったのだろう。ドラゴンよりずっとよく知っている――でも、とミシカは思う。それは間違っている。第一におにいちゃんはミシカより先に生まれていたからおにいちゃんで、だからミシカより常に年老いているはずだった。第二に。

「おれたちの世界はいつも、鏡に映っている」

  マチカは、ミシカのおにいちゃんは、ミシカのおにいちゃんとしか思えない、なによりその声がそうだ、マチカの声をした少年は、そう言った。

 けれど、鏡がミシカに向かって掲げられているせいで、そう言っているのはまるでミシカであるように、ミシカには思えた。ミシカは自分がそこに映っていると気づかないではいれなかった。ミシカはそれを喪失していなかった。少なくともそれはマチカではないと、ミシカは理解する能力を有していた。 

 なぜなら、鏡に映ったミシカは百歳ほども年を取って見えた。それは絶対に少年の顔ではなく、――目の前の少年の弟であるようにも見えなかった。

「おれたちの世界はいつも鏡に映っている。そうしておまえはドラゴンにたどり着いた、体じゅう鏡に覆われた、ぎらぎらと光る巨大で残忍なものに。でも鏡っていったいどこから来た何なのか、おまえは知っているの? たぶん知らないよね。おまえはいつだって何も知らなくて何を知ろうともしていなくてひとごろしなんだ」「ごめんなさい」

  どこからが自分の声だったのか、ミシカにはわからなかった。はっきりとわかっているのは、最後のひとことをつぶやいたのは自分自身だということだった。ごめんなさい。かつてマチカと一緒に暮らしていた頃、ミシカはそればかり言っていた。こんなことはやめよう。もうやめよう。おにいちゃん、やめようよ。そうして最後に謝るのはいつもミシカだった。ごめんね。おにいちゃんごめんなさい。みんな、おにいちゃんがごめんね。みんなごめんね。おにいちゃんがごめんね。おにいちゃんごめんね。ぼくがごめんね。ぼくがわるかったです。ぼくがわるいんだ。ぼくがいつだってぜんぶわるいんだ。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

「卑怯者」

「ごめんなさい」

「そうやっておまえはいつも責任を回避するんだ。卑怯者」

「ごめんなさい」

「違うでしょう」

「ごめんなさい」

「『ただいま』」

  鏡に隠されたマチカの顔がまったく見えないことに、ひどくおびえている自分にミシカは気づいた。そこにいるのはミシカばかりなのだった。工員たちは走って行ってしまい、そこにはミシカと、ミシカを映す鏡しかない。ミシカしかいないのではないのか? そこにいるのはミシカなのではないのか? あるいは単に鏡だけがあるのではないのか? 鏡を持ち上げている少年なんかいないんじゃないのか? 震えているのはそのせいだ。

 そう思おうとしたミシカのまえで、少年の手が、ぱっと、掲げる鏡から離れた瞬間、ミシカは立っていられなくなった。がくがく震えながら、ミシカは座り込んだ。

  鏡は落ちずに、まるで仮面のように、マチカの顔の位置に張りついていた。

  マチカは自由になった手を広げて、もう一度言った。 

「『ただいま』」 

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