越境19 マイケル その4
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最初に違和感があった。それから、風、と、残雪は思った。風。風!? しかしたしかに今、机に頬杖をついている残雪の頬を、風が弄っていった。残雪は机に浮かび上がるメッセージを眺めては机の端を叩いて、次のメッセージを眺めてはそれを追いやって、そうやってぼんやりと過ごしていて、教室には今日、彼しかいなかった。
風が吹いている。まるで「外の世界」のように、風が吹いている。残雪は焦って立ち上がり、そして、何に焦っているのか、自分でもわからない、と思う。外の世界に出られると思っているのだろうか。自分はいまそう考えたんじゃないか。ぬか喜びはするな。これは、単なる、そう、単なる。
「……雪、……ちがう」
花だ。
花弁だ。
薄桃色の花が、風に乗って舞っている。くるくると風にもてあそばれた花が少しずつ部屋の隅に、机の上に、降り積もっていく。ぽかんと口を開いていた残雪の口の中に、花が入ってきた。残雪が慌てたのはしかし、花が口に入ってきたことではなくて、それがひどく甘かったことだった。それはチョコレートの味がした。あの粘土ばかりを口にしてきた体にはその脳裏に突き抜けるような甘さは過剰すぎた。ほとんど吐き気に襲われながら、残雪は机に積み重なる花を口に運んだ。甘い。甘いというのはこんなにも、めちゃくちゃに何も考えられなくなるようなこと、だっただろうか。
「みんな大騒ぎさ」
脳に直接突き刺さるように冷淡な声が響き、残雪は顔をあげてはじめて、自分が床にはいつくばって花を食べていたことに気づいた。見上げた先にはバキリがいた。バキリは愚かな子供を見るような目つきで微笑んで言った。
「残雪。きみにだってほんとうはこれくらいのことはかんたんにできるんだよ。誰かに与えられないとなにもできないなんてなさけないなあ。きみはみんなに振り回されてるつもりかもしれないけど、単にきみは無責任なだけじゃないか」
「……黙れよ」
「冷静になった? 仕方ないよね。こんなのドラッグだよ」
いつになくおだやかな声でバキリは言い、手のひらの上に舞い込んだ花弁をぺろりと舐めた。
「……みんな、大騒ぎ?」
残雪はのろのろと身を起こし、立ちあがった。頭を何度か振る。頭ががんがんと痛んだ。もっと花を食べたいという感情を上回って、情報を処理しきれないという恐怖があった。味という概念から切り離されていったいどれくらいになる? 唐突に与えられた洪水。
「そう、もちろん、今の残雪みたいにさ、建物のどこにいても、閉じた部屋のなかにでも、花は入ってきてそうしていつかみんなそれを食べちゃうし、ほかの誰かが騒げばやっぱり食べちゃうし、そうしたらもう正気でなんていられないよね。さあて、これは『計画のうち』なのかなあ。どう思う? なんて、残雪はそもそも、『わかってない』かな、まだ? ずっと?」
「何の話――」
残雪の言葉は駆けこんできた少年の声でかき消された。声を張って行彦が、それは行彦だった、ルーム904の手を引いた行彦が声を上げている。何を言っているのかはわからない、バキリを見るがにやにやと笑っているだけだ。何かをまくしたてる行彦の言葉から、唐突に意味のわかる言葉が漏れる。
マイケル。
マイケル?
「おい、……マイケルは、……死んだんじゃ」
行彦は残雪の言葉を理解した顔で首を振った。そーりー。あいむそーりー。繰り返され、行彦が謝っていると気づいた直後に、残雪は、行彦が何を謝っているのか、唐突に理解した。自分が何を感じているのか、わからなくなった。行彦に掴みかかる。
「嘘をついたんだな!?」
行彦が顔をゆがめる。泣く、と思った瞬間指の力がゆるんだ。けれど行彦は泣かず、かわりに指をあたりにさまよわせた。風、そして花弁、最後に行彦はルーム904を指さした。バキリがくすりと笑った。残雪はかっとなってバキリに向き直る。
「何がおかしい」
「ルーム904は全然無関係だ、それは行彦の誤解、誤解? 誤解ってわけでもないけど、とにかくマイケルには関係ない。あーあ。ぼくが説明しないとだれもなんにもわかんないんじゃないか! 説明をしてあげてもいいけどそれでぼくになんのメリットがあるの? まあいいや、残雪が哀れだから通訳をしてあげるくらいはしてもいいよ、行彦、釈明しなよ」
そのバキリの言葉は行彦も理解していたらしい。こくりと肯く。ルーム904のほうはいつも通り顔色が読み取れず、黙り込んだままだ。行彦が口を開いて何事か語ったあとで、バキリがそれを受けて言う。
「マイケルは生きてる。ずっと隠れてた」
「隠れてた? どこに」
「温室、え? 温室? なんだ、あそこぼく好きだったのに、マイケルにとられちゃったや」
「……温室なんて、あるのか」
「行彦はマイケルを怒らせた。そしてたぶん、この花はマイケルが作ってる」
「作ってる?」
嫌な寒気がした。両腕で腕で体を抱え込む残雪のまわりを今も花弁は漂っている。行彦は黙ってうつむく。だからそれは行彦の言葉を通訳したわけではないとわかる。バキリは言う。幼子を憐れむように言う。
「想像力がないのは怠慢だよ、残雪。きみは飼われてるんじゃない」バキリは手を持ち上げた。ぽん、と唐突に、手のひらのうえにりんごが発生し、それはくるくると回りながら猫の形になり、にゃあと鳴いたあと、軽い音を立てて消滅した。
残雪はそれを茫然と見つめた。
「飼われてるんじゃない。試されてるんだ」
「……なにを?」
バキリは肩をすくめた。
「たぶん、可能性を」
行彦と残雪が漏らした言葉は違う言葉だったが、彼らの漏らした響きは、どちらも、とても似ていた。それはひどく乾いた音だった。
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・△さんとのリレー小説です。次回「越境20」
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