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新しい国家(1)ドラゴンとは何者の名か

 ドラゴンの工程管理者が昨日も三人食べられている。 

 さてドラゴンとは何者の名か。それはこの巨大建造物の中で管理されている巨大な物体を示す名前として定義されている。ドラゴンは巨大建造物の中で、管理者に管理され、生産を続けている。

 ドラゴンは第一に巨大であると一般的に考えられているが、それは誤認である。小さなものであってもドラゴンと呼ばれ、それはまず第一に全身が鏡のように光る細かな平面に覆われていることが特徴として挙げられる。その鏡状のものは、うろこと呼ばれる。うろこを磨くことは管理者の業務に含まれているが、うろこを磨いてよく光を反射するように管理することが、ドラゴンの生産性を高めるとの明確な立証は行われていない。ただそれはドラゴンがドラゴンであると認識する上で最も確認が容易な特徴であり、うろこを磨くことは、ドラゴンをドラゴンたらしめるために、いわば不文律として行われていた。その業務がどれほど管理者の生活を圧迫したとしても、業務からはずされることはけっしてなかった。

 ドラゴンは生産を行う物質であり、それゆえにドラゴンは管理されていた。生産はあらゆるものに及んだ。ドラゴンの排出できない物質はおそらく存在しないとされていたが、同時に、排出されるものがあらゆるものであるというだけに過ぎないともいえた。つまり、排出されるものを管理する管理者たち、そしてそれを享受する人間たちは、ドラゴンが排出するものが、存在すること、あるいは存在し始めたことを確認し、名づけることしかできなかった。管理者はドラゴンの排出したものを分別し、分別できないものを分別できないものとして提出した。それに名をつけるのは管理者の業務には含まれていなかった。それは喉と呼ばれる筒状を経由して口と呼ばれる開閉部から排出される。喉あるいは口と呼ばれる部位は人間におけるそれと一見共通しており、それゆえに、ドラゴンの口に何らかが投入される行為は「食べる」と呼ばれた。冒頭においてドラゴンに管理者が食べられたと言ったのはこのような状況を指し、それは珍しいことではなかった。ドラゴンは何でも食べた。ドラゴン同士で食べ合うことも、人間を食べることも、ドラゴンの常態だった。食べた結果として生産を行う、これもドラゴンの特徴のひとつであると考えられているが、そのあいだに因果関係がある、つまりドラゴンが「作り変えている」のかどうかは、うろこを磨く意義と同じように、あいまいにしか理解されていなかった。ただ管理者の責務として、ドラゴンがドラゴンを食べてしまうことを阻止する必要があり、それゆえに管理者はドラゴンにひっきりなしに何らかを食べさせ続ける必要があった。彼らは入れ替わりながらドラゴンに食べさせ続けた。そして運悪く、運悪くというのは死ぬことを不幸ととらえるならという前提においてだが、その前提において運悪く管理者がドラゴンに与え損ねた場合、管理者が食べられた。管理者が食べられる案件としてはほかに、排出時ドラゴンが喉に生産品を詰まらせて活動を停止した際、それを取り除くために喉に潜り、そのまま飲み込まれるという事案もまた、頻発していた。ドラゴン同士が食い合う案件は重要視されたが、管理者が食べられる案件に関して全く対策が立てられないのは、管理者は無限に存在するためだった。それは個人レベルの幸不幸の問題であり、そして管理者は業務のさなかに自分が自分である定義を喪失していたため、大多数の管理者にとって、幸不幸はほとんど認識されていなかった。

 ドラゴンの部位を名付けたのは人間である以上、ドラゴンの部位を口や喉と呼び、食べると呼ぶ点において、人間はドラゴンを自分たちと地続きの存在であると認識しているといえた。その意味で、ある意味でドラゴンは、管理者たち自身の精神よりも管理者たちの精神それ自体となっていた。彼らが口と言うときそれは自身の口を指すのではなかったし、喉というとき彼らの喉を指すのではなかった。彼らの口は彼らの口よりドラゴンの口であり、ドラゴンの口こそが彼らの口だった。そのような側面は胴と呼ばれる部位や手と呼ばれる部位そして足と呼ばれる部位にも見出されたが、しっぽと呼ばれる部位に関しては人体に共通する部位の名ではなく、胴にはりついたその長いものが、なにゆえそのように呼ばれているのか彼らは知らなかった。「し」と「っ」と「ぽ」が何を示すのか、彼らは全く知らなかった。少なくともそれは人間に由来する言葉ではないことはたしかだった。

 「しっぽ」なる言葉を知らない彼らとはこの場合、ドラゴンを管理している人間たち、つまりミシカたちを指した。「しっぽ」とは何か知っている人間はあるいは存在するのかもしれず、それをミシカたちが調べることもまた不可能ではなかったのかもしれないが、ミシカたちにはそもそも、疑問を抱く余地はなにひとつなかった。

 ミシカたちドラゴンの管理者は、しっぽに一定の間隔を置いて刻まれた段を登り、ドラゴンの背に上って、一心不乱にうろこを磨いた。磨き抜かれた鏡には彼らの顔が映っていたが、そこに何が映っているのか、彼らにはわからなかった。「鏡」と名づけられたものを覗き込んだ時「映る」のが自分である、ということを彼らは知っていたが、彼らは、そもそも「自分」とは何か、忘れつつあった。鏡に映るのは自分であると定義されている。ゆえにそれは自分であるはずだ。しかしそこに仮に自分ではないものが映っていたとしても、やはり彼らはそれを自分であると認識しただろう。なぜなら鏡に映るのは自分であるという定義づけが行われているということは事実であり、彼らにおける自分、つまり人間のなかの一個体である彼の個人的な歴史には共有される定義づけが行われていないため、彼らは自分とはどのような定義であるか、人間の個体であるという以上に認識する能力を、喪失していたためである。

  ドラゴンの話を続けよう。しっぽはドラゴンの背に上るために非常に重要な部位である。しかし、「つばさ」に関しては、これが何であるのか、何のために存在するのか、少なくとも管理者たちにはまったく理解することができなかった。つばさは不意に動き、管理者をドラゴンの背からはたき落とすことがあったため、あるいはそれは管理者のなんらかの行動に連動している可能性はあったが、いずれにせよ管理者たちにはそれは知らされておらず、ただ「つばさに気をつけろ」と管理者同士が囁き合うことしかできなかった。食べられることより振り落とされることのほうが彼らの業務においては失敗として扱われた。ドラゴンが食べることは生産に結びついているとされていたが、ドラゴンのつばさが動くことは生産に結びついているとはされていなかったためである。 

 「しっぽ」は有用に、「つばさ」はノイズとして、管理者の業務において重要な位置を占めていた。しかし前述のとおり、彼らの業務は大部分、最も何に由来する言葉なのかわからない「うろこ」に割かれており、それは前述のとおりドラゴンをドラゴンたらしめる最も重要な点がうろこにあるからであり、つまり、ドラゴンが人間ではないことを示すもっとも大きな点がうろこにあるからであり、つまり管理者はドラゴンが人間ではないことを認識するために、うろこを磨いているのだといえた。ドラゴンは巨大建造物のなかで管理されている。第一にドラゴンが一般に巨大であるために、第二にドラゴンがなにを生み出すか全くわからないため、つまりある程度の生産品のバリエーションを広げるために、ドラゴンは複数体集められている。つまり建造物は複数体のドラゴンを集めた以上に巨大である必要があった。巨大建造物は「工場」と呼ばれていた。工場には、生産を行っているドラゴンの立てる、大きな風のような唸りが、ひっきりなしに響き渡って反響していた。

  ドラゴンを扱う工場におけるごううんごうんごうんぐおんと鳴る音は、まるでドラゴンの胎内に守られているように感じられて、ミシカはいっそ、食べられた連中を羨んだ。

  ミシカは自分が何であるか見失った管理者のひとりだったが、自分がミシカと呼ばれていたことをまだ覚えていた。そして自分がミシカと呼ばれていたことをまだ覚えていることを、不快、不快というより不安、不安というより恐怖していた。彼は自分が管理者と定義される群体から逸脱しているように感じながら、自分をミシカと呼ぶ相手が誰もいない場所で、ドラゴンのうろこを磨き、ドラゴンに食べさせ続けていた。自分がミシカであるということを理解したうえでそれを行うのは、完全に忘れてしまった皆より、疲弊しやすいのではないだろうか、と、ミシカは思った。疲弊しやすい理由はもうひとつあった。ミシカはドラゴンたちを愛していた。愛しているという言葉で合っているだろうか、たぶん合っている、合っていると思う、この場合ミシカが使っている愛しているという言葉は、ドラゴンを見ると体感温度が上がり、触れると喉が渇き、尿意にちかい感覚を覚えるということだった。ほかの管理者たちにそれを告げると、管理者たちは、ミシカを、違う固体として認識した。そのようにしてミシカは逸脱していると自他ともに認識している状態に陥っていた。しかしミシカはドラゴンを愛することをやめられなかったし、ひとつひとつ違うドラゴンを、そもそも少ない睡眠時間を削ってひとつひとつ見て回ることをやめられなかった。ミシカが、ドラゴンは巨大なばかりではないと知っていたのはそれゆえである。もっとも小さなドラゴンには、ミシカはあまり惹かれなかったが。

  そしてドラゴンにどうして惹かれるのか、ミシカはそれも自覚しており、それはよりいっそう、群体としての管理者から、ミシカを遠ざけた。

 ごううううごうごうううううううううと響くなかで、排出される生産物を待ちながら、生まれる前の世界というのはこういうものだろうかと、たしか誰かが言った。それは、ドラゴンの咆哮の渦巻く工場についての言及だった。生まれる前、女の腹の中にいるっていうのはこういう感じだったんじゃないか、と、誰かが言い、じゃあ幸せってことだな、と、誰かが答えたのを、覚えている。しかし、ミシカは母と呼ばれるものを持ったことがなかったので、それが女の胎内である蓋然性を持たなかった。そして女の胎内にいることの幸不幸もわからなかった。親という概念の代わりに、ミシカはおにいちゃんという概念を持っていた。それをミシカは、自分より年かさの人間の男性のうち自分にとって密接な関係を持っている相手として定義していた。ミシカにとってのおにいちゃんという概念は血縁関係、つまり同じ親から生まれたことを意味しなかった、なぜならミシカは親を知らなかった。しかし少なくともミシカをはぐくんだのはおにいちゃんだった。ミシカにとって彼をはぐくんだものは彼と同じ男性器を持った年かさの人間であり、彼をミシカはおにいちゃん、と呼んでいた。いつか新入りに、つまりまだ群体にまじわっていない新人の管理者に、身内は、と聞かれて、おにいちゃんが、とミシカはまず答え、その新人はどうも、血縁関係を誤解したようだった。別に誤解されて困ることはなかったけれど、うれしいという感情と恥ずかしいという感情と恐ろしいという感情がいりまじった感情をミシカは抱いた。ミシカはおにいちゃんに似ていなかった。血が繋がっていると考えたこともなかったし、そう考える理由もなかった。ミシカと違い、おにいちゃんはとても優秀な人間で、とても美しく、そしてとても残忍だった――とおにいちゃんに言えばおにいちゃんは怒るのだろうかとミシカは思う。わからない。おにいちゃんとかつてミシカが呼んでいた存在がミシカのなかで概念にもひとしい遠さになってしまって、つまりほとんど架空のものになってしまってからずいぶん長い時間が過ぎてしまった。おにいちゃんがいました。ふたり。いや、ひとりだったかな。少なくともひとりいたことは覚えているんだけど、もうひとりのことはうまく思い出せない。うまく思い出せないから、それを口に出して説明したことはない。親はいません。おにいちゃんがいました。そう一言告げるだけで、彼らは全てを理解してくれる。勝手に。それは誤読だ。 

 ミシカが胎内を思うならば、それはおにいちゃんの胎内でしかない。その連想は滑稽だった。おにいちゃんはミシカを孕んだことはないし、孕むことはできない。けれどなぜだろう、工場のなかで拡散しがちなミシカの意識はそう問う。なぜだろう、女が孕んで男が孕まない、その理由がミシカにはもうわからなくなっていた。ドラゴンの咆哮のもと、彼らは働き続けている。そして皆自分よりドラゴンについて考え、自分よりドラゴンに食べさせ、自分が自分であることを忘れていくのに、ミシカにとって曖昧になっていくのはどこまでもおにいちゃんの実像であって、それはむしろいっそう、おにいちゃんに溺れていくことのように思えた。

  ドラゴンとは何者の名か。

  答えよ。 

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