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人間性を喪失した。

 おはこんばんにちは。皆様如何お過ごしでしょうか。

 9月から通院が週5になり、人権のない生活を送っている。起きて薬を飲んで飯を食って病院に行き何するでもなく夕方まで過ごし、帰って寝、食って薬を飲んで歯を磨いて少しスマホを見て寝ている。労働をしているわけではないので、この行為によって得るものはなにもなく、生み出すものも何も無い。ただ社会生活の真似事をして830円が毎日失われていくだけである。正直生きるモチベーションはない。かと言って、労働できるかと言われたら、行ったうちの半分くらいは不眠や傾眠などの体調的な問題で寝ていたりするので出来ない。行くたびに自尊心が失われていくだけである。社会に戻るためのいろいろな治療をされているが正直洗脳のように感じており、若干苦痛ですらある。何をしていても自分という存在は無価値であり、無個性な歯車としてしか必要とされていないということを絶えず再認識され、それがとても辛い。自分を必要とされなくても生きていけると思っていたが、全然そんなことはなかった。人は誰か、そして何かに必要とされて始めて人として生きていけるのだなぁとしみじみ感じている。

 昔は一人旅が好きだった。今はできない。なぜなら一人で行動するとパニック障害が起こるから。おかげであれだけ好きだった写真も撮らなくなった。カメラはずっと机の上に置物として置かれている。人との旅行も他人からの目線が怖くて行けない。働いていない自分に対して社会から常に非難されているような声が聞こえる。最近は無視できるようになってきたが。インスタグラムもログインしていない。旅行や美味しいご飯を食べている同世代の人々を見ると、自分と比較してしまい、落ち込むので見ていない。Twitterもほとんど見ていない。小さな世界で生きている。

 手のひらを太陽に透かしてみれば、真っ赤に流れる僕の血潮〜みたいな歌詞を歌った歌がある。生きているだけで丸儲けだという言葉もある。だが現実はそうではない。生きるにはコストがかかる。住居費、食費、水道光熱費を始めとして、病に倒れたときの治療費といったメンテナンス費用もかかる。生きているだけで大損なのだとも言える。ただ生きるだけなのにお金がかかる。そして働くことでメンテナンスリスクが増大する。だがそれに比して人生の充実度が上がるかと言えばそうでもない。時間を奪われ、体力を奪われ、娯楽を奪われ、残るのはなけなしの時間と健康とは程遠い身体、精神である。そして対価になるのは必要経費を差し引いたら僅かな額のお金だけ。それがわかっていてなぜ治療のモチベーションなど湧くのだろうか。いつから人間はマゾヒズムに毒されたのか。などと何処にも響かない愚痴を言ってみる。手取り500万、せめて300万は無いと生きていくことができない。悲しいな。

 正直ここに来て「治療」というものに対して不信感がかなり募っている。不眠症にせよ、過眠にせよ、鬱にせよ、双極にせよ、パニック障害にせよその全ての「治療」が対症療法でしかないことに加え、「治療」の目標が社会復帰であることが不信感の原因である。前者は当然なことと言えど、後者については患者たる自分が本心から社会復帰したい!!と望んでいるわけでもないのに、社会復帰する方向に暗黙の了解で話が進んでいることがあまり好ましくない。社会復帰しないと経済的に死ぬのだが。しかし社会復帰したところで得られるものが前述したとおりである以上、積極的に「治療」されたいとはとても思えず、消極的ではあるが死にたいとすら思える。まあでも社会活動は鬱になるまでのチキンレースなので、早期リタイアを決めた自分は少し考え方を変えて生きていったほうがいいのかもしれない。40年前なら首吊ってるし。そんな感じのことをつらつら考えながら生きている。飯の誘いは常にお待ちしている。今はとてもマックが食べたい。

ではまた。