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#2 小学生6年間。兄と私

小学生にあがり、どのように過ごしていたかはよく覚えていません。断片的には思い出せますが何かがすこぶる楽しかったとか、何かがとてつもなく悲しかったとか、自分にとって刺激となるものはなかった平和な時期でした。

ただ明確に覚えいているのは一番調子にのっていた時期だった、ということです。

私はクラスでも学級委員などのリーダーをつとめることが多く、女の子の友達はもちろん、男の子の友達もたくさんいました。お昼休みは男の子たちと一緒にドッジボールをしながら過ごしていたことを覚えています。

勉強もできたほうでした。運動もできたほうでした。たくさんの人とも話せたし、かと言って誰かに嫌われることもありませんでした。

一方、兄はそんなに学校になじめていなかったように思います。私のように浅く広くという人間関係ではなく、狭く深い人間関係を求めていました。またいじられキャラとして成立していたためか、一度やりすぎたいじられを受け、教室で騒ぎを起こしたことがあり、それ以降本当に仲の良い数人としか話をしなくなりました。心に深い傷を負ったというよりかは、友人以外はどうでもいいので話したくないという考えだと思います。口数も少なく、自分の主張もあまりしない性格だったので、どうしても私よりも後ろにいて見守るような立ち位置でした。

また剣道の道場に通い始めた当初も、周りは違う学校に通っている人ばかりで、兄は仲良くなりにくそうにもじもじしていましたが、私は元気いっぱいに先生や子供に話しかけていった記憶があります。私の方が剣道もうまくなっていく一方、兄はそんなにうまくはなりませんでした。

塾でも同じような感じでした。学校でも・・・。

そのため元気で明るいしっかり者の妹さん。少しシャイで不器用な優しいお兄さん。といった構図になっていました。

当時私は兄のことが大好きでした。仕事で忙しい母の代わりにご飯の準備をしてくれて、優しくて・・・兄はシャイで不器用な(と思ったことはありませんが)だけではなかったからです。

学校で騒ぎを起こしたと書きましたが、簡潔に言えば教室の外のベランダに追い出されたのです。周りは笑っていたそうでしたが、兄は腹が立ち、授業が始まるからといじめっ子が鍵をあけた瞬間に殴りかかったそうです。普段おとなしい子が急に人を殴り、机を蹴り飛ばし、などしたら先生も慌てたことでしょう。また友人ともひょんなことで喧嘩をしてしまい、友人がかっとなって兄に手を出してしまい、殴り合いの喧嘩をして帰ってきたこともありました。

ただ、誇れるかと言われたら、今の私ならうなずきますが、何もかもうまくいっていて上位カーストにいると思っていた小学生の私は少し苦笑いをするしかなかったのです。心の隅で、私はお兄ちゃんよりもうまくできるんだ、勉強も運動も人間関係だって・・・と兄を下に見ていたことはありました。今思うとなんて馬鹿なのだろうと思いますがね。

兄は自虐しつつ、そんな私をいつも褒めてくれました。微糖はすごいよ、なんでもできる、俺はだめだなぁ、勉強も好きじゃないし、運動だって苦手だよ、と。

母はそんなタイプの違う私たちを愛してくれました。二人には二人の個性があるのだから・・・と。

父は何かと娘である私のことを褒めて、息子である兄のことを「まだまだだなぁ~」と発破をかけることが多かったです。そのためか、母はバランスをとるために私より兄を褒めたり、甘やかすことが少々ありました。

だけど、私は兄より勝っていると思いこみつつも、心のどこかで兄には勝てないと思うことが何度もありました。勉強なんてドリルを何回もやればなんとでもなる。ドッジボールだって私が1番うまいわけではない。剣道だってなんとなくやってるだけで・・・。

兄はゲームがとても上手でした。何かを作ることが上手でした。絵が上手でした。料理も、裁縫も。小学生だった私の語彙力では表せなかったのですが、つまり創造力がはるかに私よりあったのです。そしてその創造力の源は「ぼく、これが好きだから」とたった一言。

私は好きと呼べても、することがありませんでした。ドッジボールは好きだったけど・・・習い事は剣道でした。本当はバスケットボールかバトミントンがしたかった。ピアノだって最初は好きだったけど小学生高学年にもなるとやりたくなくなってきました。それよりかはドラムの方が好きでした。好きだからと言って身近なもので楽しそうに過ごしている兄、過ごすことができている兄を「いいなぁ」と思いました。憧れや羨望、劣等感、嫉妬が入り混じった「いいなぁ」

私は兄より優れている、と思いつつ高学年くらいになるとその気持ちは薄れていきました。私が小学5年生の頃、兄は中学2年生。兄は中学でも人と関係を築くことを嫌い、問題児として扱われるようになっていました。私は相変わらず優等生で三者面談でも「問題ありません。何も話すことがないくらいですよ」と担任に言われるばかりでした。

私は兄が羨ましかったのです。周りになんと言われようと好きな事をする兄が羨ましくて、恨めしかった。そんなに同級生から嫌われるならしなければいいのに、先生が怒るからわかったふりして謝っとけばいいのに、と言ったことがあります。兄は「俺はしたくない。する理由がわからん。あいつらもわがまま言っとるんなら俺も言っていいやん」と言っていました。それが正しいか正しくないかは置いといて、私は「いいなぁ」と思いました。

私は面倒だから衝突が起きないように元気にふるまって人間関係を整理して生きてんのに、私がやってることを否定するみたいな行動をするなんて。馬鹿だなぁお兄ちゃんは。と思ったのも一瞬。いいなぁに変わるのです。

私が兄に憧れつつもそうなれなかった理由として、自分にそこまでの意志がなかったことと、もう1つ理由がありました。それは両親の存在です。

母と父は優等生の私を褒めてくれました。「微糖はいいね。友達もたくさんいて勉強だって頑張ってて、剣道だって!」と。また母はご飯を食べるときに学校で何かあった?と毎回聞いてきました。母は子供たちとコミュニケーションをとることをとても大事にしてくれました。寝る前はいつもハグをしてくれました。その一環でしたが、兄は学校で楽しいことは何もない、あったとしても「クラスの女子がうるさくてウケる」といった話でした。それが悪いわけではないのですが、なんとなくモヤモヤしてしまい私はなんとか楽しい話をしていました。

小学生6年間で兄と私の差異によって、私は誰にも強いられていないのに「いい子」になろうとしたのです。当時はそのほうが楽だからと言っていましたが、今思うと兄と正反対の存在になることで自分の立ち位置を見つけたかったんじゃないかなと思います。ただだいぶ無理をしていました。好きでもないことをして成果をあげて、学校では問題を起こさず色々な人と仲良くして、家でも元気いっぱいに。またそれで家族が喜ぶなら、褒めてくれるなら別にいいや、その一心で続けていた節さえあります。それほどまでに私は家族が大好きでした。

卒業式に母から手紙をもらいました。その中で

昔は思ったことを素直に出す子だったのに。いつも笑って無理をしてしまうようになってしまったね。

という1行がありました。

それを見てお母さんも気づいているんだと思いました。救われた半面、苦しかったのを覚えています。私はお母さんが本当に大好きで、だからこそ迷惑をかけないようにいい子でいようと頑張っていたのに、気づいてくれた・・・息が楽になったけど、もっともっとちゃんとしなきゃ心配をかけてしまうと強く思いました。

それから中学生になり、私は初めて母親がすべてではないのかもしれないということに少しずつ気づき始めるのです。その動揺と困惑は不登校へと話は広がっていきます。また次回お話しさせていただきます。