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シリーズ「コロナ禍と認知」 その3 “人の行動をドライヴさせるものは、いろいろである”

   “人の行動をドライヴさせるものは、いろいろである”という理屈は、当たり前すぎているようにも見えます。ただ、今回のコロナ禍は、私にとってそのことを改めて感じる出来事でした。

 たとえば、今回はいくつかの具体的な行動が、具体的な規範として提示され、それらをどれくらいのコンプライアンスで行うかについていろいろな意見が聞かれました。代表的な行動は以下のような行動だったかと思います。

・ マスクをして社会生活をする
・ 不要不急の外出を避ける
・ (感染が疑わしい場合/疑わしくなくても)PCR検査を受ける

1個目と2個目は社会生活を送る当事者にとって「義務」のように語られ、3個目は「権利」のように語られました。そのニュアンスがあるからこそ、「べき論」のふり幅もまた大きかったのかと思います。興味深いのは、この「べき論」を支えているものが、表面上は「根拠」(これは第二回のテーマでした)であることが多いのですが、おそらくはそれよりもこの行動をドライヴさせる動機の種類とその強さなのではないかということです。私は後者の強さを感じました。

では、行動の「べき論」を支える動機はどのようなものだったのでしょうか?ここでは話をシンプルにするために「マスクをして社会生活をする」をまず取り上げてみましょう。おそらく、以下のようなことを個人はそれぞれかなえたかったのではないでしょうか?ちょっと極端に書きます。

・ 自分が感染して、死なないこと
・ 自分が感染して、辱めを受けないこと
・ 不顕性に感染した自分を媒介として、自分が間接的に人を殺さないこと
・ 皆と同じ行動をとることで、後ろ指をさされないようにすること
・ 皆と同じ行動をとることで、社会全体の秩序を保つこと

それらのことを叶えるためにマスクをするのですが、マスクをして生活を送ることは、同時に叶っていたことが叶わなくなるという一面もあります。以下のようなことでしょう。

・ 走っていると苦しい
・ 人に自分のメッセージが上手く伝わらない
・ キスできない
・ 他人から見て臆病者と思われるかもしれない(日本ではさすがに今は誰もそんなことは思いませんが、どうやらトランプ大統領がマスクをつけない最大の理由はここにあるようです)

以上のようなさまざまな「叶えたいこと」のバランスの中で人はそれぞれ「マスクをして社会生活をする」という行動を採択するかについて考えているのだと思います。さらには、自分とは異なる行動を採択した他者について「けしからん」とか「怖がり過ぎ」とかの感情を抱くのでしょう。

 よく海外のレポートなどで「日本の住民はマスクの定着割合が極めて高い」という賛辞を聴きます。これは、おそらく日本の住民が共通に持っている「叶えたいこと」と「叶わなくなってしまうこと」のバランスが、例えばラテンヨーロッパに住む人たちと異なっているのだと推察します。たとえば、「自分が感染して、死なないこと」を叶える欲求は人間なら誰しも持つ欲求でしょう。そして、その欲求に大差はないように思えます。「不顕性に感染した自分を媒介として、自分が間接的に人を殺さないこと」については、とても倫理的な態度のように映ります。だからこそこのような欲求は高らかに言語化されがちですが、この欲求が実際の個人の中でどれほど強い「叶えたいこと」なのかについてはよくわかりません。とてもふり幅が大きく、それは民族間の差というよりは個人個人の差の方が大きい気もします。「皆と同じ行動をとることで、後ろ指をさされないようにすること」という欲求は、ラテンヨーロッパに住む人たちに比べて日本の住民の中ではとても大きな「叶えたいこと」のように私には映ります。一方「人に自分のメッセージが上手く伝わらない」という「叶えられなくなること」に対するフラストレーションについてはヨーロッパに住む人たちと比較してかなり小さいかもしれません。

 最近とても強く感じることは、人が何かを主張するとき、必ずそこにはそれぞれが「叶えたいこと」が存在し、そしてその「叶えたいこと」は複数かつとても複雑な力学で個人のインナーワールドを駆け巡っている、ということです。おそらく「根拠」は、その力学を変容させたり、逆に落ち着けたり、さらには他者に主張したりするときに用いられる手持ちカードのようなものなのかもしれません。

 少なくとも私自身は、今回のコロナ禍における「マスクをすること」ひとつとってみても、自分のインナーワールドにおいて「叶えたいこと」の序列や強さ、あるいは「叶わなくなりそうなこと」とのバランスについて、こんな風にいちいち言語化しないと意識できませんでした。同じようなことが「不要不急の外出を避ける」という行動や「PCR検査を受ける」という行動をドライヴする、あるいは歯止めをかける上でのダイナミズムを形成しているのだと思います。そして、それらをいちいち紐解いていったとき、ひょっとしたら自分の認識に明らかな矛盾があることに気づくかもしれません。そして、その矛盾こそが「自己」を形成する芯の部分のヒントである可能性もあります。

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