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コラボレーションみたいな。

 服飾と音楽は芸術で繋がっているものだと、改めて感じる。そういう感じで映画と絵画も仲間。服飾を学ぶ学生時代にバンドの真似事をした経験がある。仲良しで片想いしていた彼がギターを弾いていたから、流れでちょっとずつ教えて貰っていた。一緒の時間を過ごせるだけで、すぐ側に居られるだけで、幸せだった。この気持ちを伝えることは出来ない。普通の恋愛は出来ない。いや、そんな次元じゃないから、もう同じ人間同士として息して、地球に生きているだけでいい。ドラム、ベース仲間達も揃い、ライブハウスで練習し、店が営業中の合間に仮演奏をしたり楽しかった。ギターを片手に歌う彼は輝いていた。

 あの頃は、時代が夢や希望に溢れていて、栄枯盛衰の意味も、景気や社会の状況なんて関係無くて、その全てが若さにはパワーになった。不安定で未熟なことが、シーソーのように、どれほどに絶望と救いを与えてくれていたのか。過ぎ去った時を思い出しても、きらきらときりきりとが胸を貫いていく感覚を蘇らせる。彼は死んでしまった。突然に忽然と。何が起こったのか理解出来ない。生きても死んでも、対して変わらないなんて傲慢にも思い込んでいた罰みたいに。罰でたまるか。細胞は毎日死んでは生まれてを繰り返しているんだから、何も、持ち合わせた寿命が尽きるまで…死を選ぶことは無かったのではないか。ずーっと堂々巡りをして来た。生物として、己の身体は己自身の所有物なのだから、己から、この世に終わりを告げることは正解なのだろうか。何処からどこまでが個人の領域と責任なのだろうか。

 バンドにデビューの話しが飛び込んで来たのは、その直後。メインの彼が不在となった状況では、其れは無理な虚像となった。安易に失ったパーツを補充するブロックのような塊になり取り繕えたとしても、すかすかなことに変わりない。替えがないし存在しない。メンバーの一部はチャンスを捉えて、音楽業界へ飛び込んで行った。所詮、バンドなど遊びの延長だと思っていた自分は、就職して社会人の道を選択した。

 あれから何十年。

 最近、分かったことがある。

 身体と身体の体温を感じられることが、生きていることなんだと思っていたけど、

 生きている実態と実体もない方が、より色濃く感じるのは何故なんだろうと。記憶を美化しているのでもない。実際に話せた頃よりも、姿が見えない方が、より強く繋がっているような気配を感じる。

 それが、今を生きている証拠でもあるんだ。

 意識下で話しかける時、より近くに感じる。

 意識内コラボ。

 きらきら。

 レボリューション!

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