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Days 5/6 Makoto OFUNE solo exhibition "VOID" with Bumpei KUNIMOTO

大野一雄 『「けいこ」の断片』*より

『理解というものは動きから生れ、動きは理解から生まれるものでなければならない。

(1960年)6月19日のけいこは揺れることから始まった。

漠然とゆれることから始まった。私の打つドラムも漠然とした音色とリズムだった。

そこには何物もなかった。どういう理解で動いてよいのか問題を与えてなかったので、そうなるのは当然だった。ただ前後に揺れているだけでよいのに、揺れる方にとってはどういう理解によって動くのか戸惑っていた。私の心のどこかにあった即興的な理解による表現の期待を感じたからかも知れない。そうではない。ただ揺れていればよいんだと言いながら、私の心のどこかで何かを期待している。

「それにしても、もう少し上手に動けそうなもんだ」

「じゃ、お前に出来るというのか」

「いや、私だって」

「それならこれは無理というもんだ」

ただ動くということも実は仲々むづかしいものなのだと改めて考えなおす。…(略)…動きが成り立つという事(個の構成)は生命力、生きることに対する理解と生きる世界との関係によるもの私はだと思っている。』

いつも思い出す。日本のダンスの巨匠・大野一雄の言葉。

踊りにおいて、動きが成り立つということは、生命力、生きることに対する理解と生きる世界との関係性による________

ということは、踊りを深めることで、人生の大きな側面の思索を深めることにつながるのではと感じている。

つまり、生命の理解とは医学であり、運動であり、子育てであり、生命の日常的に起こっている圧倒的に奇跡的な働きを追い続けること。また、世界との関係とは、人間関係であり、文化社会物理的な環境であり、心の機微を知ろうとすること。

踊りはそれを私の生命自体で体現していく芸術である。

一般的な意味合いで使われる「表現すること」や「演じること」とは違う。

生命の理解と世界の関係性を、学んで、理解して、やってみて、失敗して、わかっていくしかない。おそらくその一番早いプロセス。それが踊りなんだと思う。

また大野一雄は、いわゆる「役に入る」ようなことをせず、日常と舞台の切り替えが早かったという。「大野先生、お願いします」と言われたら、それまで孫と遊んでいたボールをポーンと遠くにやって、次の瞬間には踊り始めている。即興の天才と言われることもある。

何か見せようという意識ではなくて、常に舞台の自分もいるし、おじいちゃんとしての自分もいるし、あまり分け隔てなく捉えていたんだろうな。

それがなかなかできないんだよなー。

でも、ちょっと分かってきた。

魅せるための舞台ではないのだから、かっこつけないで踊るだけ。

色や演出をつけないで、簡素に簡潔に、踊りたいな。


最終日、行ってきます。


(*)大野一雄『「けいこ」の断片』(1960年7月第一生命ホールで行われた、「ディヴィーヌ抄」が上演された土方巽DANCE EXPERIENCEの会プログラムより)、小冊子「大野一雄と土方巽の60年代」、BankART1929(出版)、 2005年から抜粋。

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2019 年 10 月 23 日(水)- 28 日(月)
午前 10 時 – 午後 7 時(入場無料) http://bit.do/fdSUe
浄土宗大蓮寺塔頭 應典院 おうてんいん
〒543-0076 大阪府大阪市天王寺区下寺町1-1-27
今年3月のポンピドゥセンターでの公演の後、日本では凱旋公演になります。大阪9hours × 6days どうなる!? 國本 文平をインスタレーションとして展示する!? 世界初の展示会の試みです。昨年日仏友好 160 年を祝して開催された「ジャポニスム 2018」の一環として、パリ フィルハーモニーホールで森山開次さんと踊った大舩真言のあの作品と共に。ぜひ体感しにきてください。
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[ホームページより] http://bit.do/fdSUe
このたび、広く国内外で活躍する美術家大舩真言(おおふね まこと)氏の展覧会を大阪下寺町の應典院で開催します。日本画古来の和紙と岩絵具、時に素地に岩石も用い、岩絵具の持つ色彩の繊細な発色と粒子の物質感を自在に駆使する作風は、時間と共に印象が変化する重層的で奥深い鑑賞体験をもたらし、その作品は平面絵画というより、鑑賞者をあたかも一つの磁場に引き込むような、場そのものを立ち上がらせる空間芸術として、文化庁新進芸術家海外研修員に選ばれるなど、高い評価を得ています。
今まで美術館・ギャラリー以外にも京都の上賀茂・下鴨両神社、パリ聖メリー教会等の宗教的環境で、その場の精神性に喚起されたインスタレーションを行ってきましたが、今回の会場、應典院は、20 年にわたり「開かれた寺」を標榜して現代社会と仏教の接する最前線にあり、文化情報の発信および多彩な分野の人々の交流の場として知られています。
ある意味で生死を超えた長い時間軸を感じることのできる寺院での展覧会は、鑑賞者にはより深く内的な体験の機会となり、芸術専門施設以外の(オルタナティブな)場における空間と作品の有機的な相関を実感する好機となることと思われます。
二つのインスタレーションで構成される本展では、無の質感をテーマとした作品 VOID が本堂に、また呼応するロビーギャラリー(気づきの広場)では窓を一つの意識と捉えながら、外界と内面をつなぐ象徴として、人間の存在をインスタレーションに取り込む新たな試みにも挑戦します。




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