1立方メートルの幸せ
先日、友人と面白いカフェショップに入った。なぜ面白いかというと、ドリンク一つ一つに、疲労困憊とかくつろぎカモミールとか、コンセプトがあったからなのだけど、私は、疲労困憊のコーヒーを飲むことに。
それを聞いた友人は、疲労を選んだの?面白いね、自分は幸せだから幸福のチョコミント、といった。
今から疲れることがあるから(実際、重たい仕事が控えていた)、と言い訳めいたことを言ったけど、わー、やられた!と心のなかで(負けず嫌いの私が)思った。が、なるほどとすごく納得した。
なんで人って、今ある幸せを味わないんだろう。幸せって日々のささやかな営みにあるのだということは、夫が亡くなって、身に沁みて感じていたはずなのに。
人は遠いところに幸せな自分を置いて、幸せを自分から遠ざけているんじゃないかな。
最近、余白をもつという言葉が自分の中にはいってきた。自分が余白を感じると、満たされてくるものがある。
幸せとは、自分の周りの1立方メートルを幸せで満たし、幸せを感じるということだと気づいた。それが今ここを生きるということなのかなとも。
自分の幸せの範囲を広げすぎると、幸せはより遠ざかる。今ここ1立方メートルの幸せを感じようとすれば、洗濯機のカタカタ鳴る音すら、合間に聴こえてくる鳥のさえずりのように、幸せな音に聴こえてくる。そして自分がこうして生きていることが有難いものに思えてくる。
幸せを感じるということは、大きな愛を感じるということ。
ちなみに、そのとき友人の頼んだ幸福のチョコミントは、ふわっとしてとても美味しそうだった、そしてすっごくいい笑顔をしていた(笑)