普段形にならないものが形になるということ

「氷漬けだ!」 英語では「icen!」 アニメ映画「zootopia」の名台詞。このアニメで最も心惹かれる場面だ。

カワウソのエミットの妻が、警察署に再三足を運び、行方不明の夫を探してほしいと懇願していることに気づいたウサギ警官のジュディが、街なかでいかさま商売をしているキツネのニックとともに、エミットを探す。エミットはとあるリムジンに乗っていたことが確認され、そのリムジンの中を漁っていると、ニックはミスター・ビッグと呼ばれる者が所有していることに気づく、実は以前、母親へのプレゼントを考えていたビッグのもとに、ニックが高級な絨毯は勧めた。それがスカンクの毛で作られたことを知ったビッグは激怒し、殺しはしないもののニックを勘当していたのだ。運悪くビッグの手下のシロクマらに、二人は誘拐され小屋に拉致される。ここからビッグが何者かわからないジュディの目線で、視聴者はビッグの登場を待ちわびる。

次々とシロクマは現れるがニックは違うと答える。そしてひときわ大きい手下のシロクマが現れ、包んだ手のひらを机の上で開くと、重厚な木製の回転椅子に座ったビッグの背中が見え、手下によってくるり半回転され、二人と対面する。ビッグはネズミなのだ。それもどこかでみたスーツ姿…

そう、ビッグは「ゴッドファーザー」のドン・コルレオーネをオマージュしているのである。ウィキペディアでもそれが明確に記されている。子どもたちは「かわいいネズミさん。」であるが、お爺さんお婆さんは「おおっ」と若き日を思い起こしたに違いない。ビッグの登場とセリフの部分だけでも、アメリカ・日本・韓国・中国・フランス・イタリアとかなりの言語のものがyoutubeに掲載されている。やはり「しびれて」しまった人間が全世界にいたのだろう。ではなぜこのシーンは好評なのか。

吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」を他の曲に重ね合わせてyoutubeに掲載する現象が起きた時、吉は「音楽の底辺でどこか重なり合う部分があったのだろう。温故知新の傾向を嬉しく思う。」と語っていた。

吉の考えを発展させると「いいもの」とは本来形になっていないものなのかもしれない。それが具象化され歳月を経て、物理反応のごとく形が変わったり重ね合わせたり、一部を加工したりするなど、いじられるというムーブメントに「いいもの」の評価がつけられるのではなかろうか。

「zootopia」そのものも、秀作である。肉食と草食の動物の融和から対立に変わってしまうシーンは、現在の人種差別問題をわかりやすく描いている。2つ目に印象に残ったのは、電車で草食獣の親子の脇に、肉食獣が平凡な顔をして座ったことで、親子が恐怖を抱いているシーンである。

この「差異」も、「いいもの」と同じように平和な時代には形なき存在ではないだろうか。しかしちょっとした事件が起爆剤となって差異が明確化され、アイデンティティを守るためのデモや暴動、急進的な思想形成へと発展する。ユーゴ紛争もそうであった。昨日まで単なるご近所だったのに、紛争が起きてクロアチア人とセルビア人として睨み合う間柄になってしまった。

じゃあ血みどろにならないと解決はしないのだろうか。実は吉が言った「底辺でつながる」という部分を見つければいい。つまるところ「違い」は意識してもその上の次元である「人間」という共通部分の認識を強めることが必要なのである。「zootopia」の最後は肉食・草食の区別なく踊るシーンで終わる。「動物なのだ」ということの認識に立った結果である。

「自分たちは人間なのだ!」という人間賛歌のパワー。それは政治ではなく芸術や哲学の方面に迂回し生成されるものではないかと私は思う。頭と心と腕の見せ所が今ここにある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?