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『海響一号 大恋愛』(海響舎)感想

 これは、ヴァージニア・ウルフをめぐる雑誌『かわいいウルフ』の主宰で知られた小澤みゆきさんによる新たな出版プロジェクト「海響舎」の文芸誌『海響一号 大恋愛』のレビューである。今回はISBNコードが取得されており、独立系書店を中心に販売されている。(なおAmazon.co.jpには高額転売品が出品されているので、うっかり買わないように注意してほしい)
 私は主宰の小澤さんからご献本いただき、このたび読む機会を得た。全作レビューではないが、少しだけ思ったことは書き残したいと思う。

コンセプトについて

 まず前提として、これは文芸雑誌で、恋愛にまつわる短歌、エッセイ、論考、小説が収められている。企画を立ち上げるにあたっての主宰者の思いは、巻頭言「愛を信じ、フェミニズムから逃げない」で直接確認することをおすすめする。
 文章の長さや方向性はまちまちだ。小澤さんが『かわいいウルフ』でテーマにしたヴァージニア・ウルフと比べると一見広すぎるテーマ設定だが、通読するとある程度の共通性が見えてくる。女性に焦点が当たっている文章が多いが、男性の寄稿者もいる。創作は、恋愛の主体として女性が描かれるものが多いが、語り手が恋愛関係の当事者ではない一歩引いたパターンもしばしば見られる。
 ここで表紙を見ていただきたい。The Girls & Boys of Integrityと書かれている。高潔(誠実)な少女たちと少年たち。少女たちが先にくるが少年たちも加わっている。男性も社会生活や家族生活の中で女性と関わる。彼らにとっても女性は他人事ではないはずだ。ゆえに女性を主体にしつつも、女性による女性のための雑誌にはしなかったのではないだろうか。

 さて、メインとなる特集企画は、主宰の小澤みゆきさんが書かれた女性作家の紹介文1ページに、匿名の人物たちが書いた大恋愛にまつわる文章1ページが続く見開き13ペアだ。小澤さんの紹介文は、女性作家とその家族や恋人の関係にかなりフォーカスされている。著作における登場人物間の関係性に言及があることもある。なるほど、基本的に恋愛の成立には最低2人以上の人間が必要なのだった。
 私が特集で一番共感できたのは、小澤さんによるアンナ・カヴァン「訪問」の紹介文かもしれない。いわゆる恋愛小説ではないが、ひとつの対象への執着を描いていて、それはつまり恋に等しいという論理で選ばれていた作品だ。それはわかる。それなら私にもわかる、と思った。小澤さんは編集後記でも大恋愛を欲する行為そのものと定義している。
 対となる文章は匿名であるし、フィクションともノンフィクションともつかない。田舎・故郷・終わったこと等のモチーフが何度か出てきたのが印象的だった。離れたり、終わったりして遠くから俯瞰しないと、大恋愛の大きさは判定できないのかもしれない。
  
 さて、これを書いている私にとって恋愛ものというジャンルは鬼門であった。私はフィクションのジャンルだけではなく、他人と交際すること自体にあまり適合していない。苦手意識が強い。
 恋愛の規範に乗るというのは私にとって、袖の長さが合っていない服を身につけたり、4本指の手袋に5本指を押し込めたり、そういった違和感に耐えなければいけないことを意味した。他人との交際は私にとってフィットしない部分を無理矢理押しこめたときだけ成立するものだ。それが性自認に由来するのか、性的指向に由来するのか今でもよくわかっていないが、とりあえず全然合わせることができなかった。
 しかし考えてみれば、いかなる人間にとっても、他者との交際はフィットしない部分だらけに違いない。完全にフィットするわけがない。どういう形でかみ合うか、かみ合いやすいかどうかが変わるだけだ。考えてみれば当たり前だったのだが、特集を読んであらためて納得した。

創作や評論について

 永山源さんの短歌「へだてなく廃屋の蔦ひからせて真空にたましい吊される」はなんとなく惹かれる、張りつめたヴィジョンが印象的。
 甘木零さんの短編小説「古風な恋の物語」は題名のとおり、クラシックで品良く語りすぎない物語。母の再婚をきっかけに、姉妹は、祖母と祖父の二号さんと噂されていた女性の老婦人二人暮らしの家に住むことになった。恋愛か連帯かも明かされない祖母たちの関係性。すべてを他人に明かさないと私的さは、恋愛自体の私的さに通ずるように思った。おすすめ。
 太田知也さんの短編小説「けだもの」は、さまざまな人外に恋焦がれる女の子に振り回される話。「マニック・ピクシー・ドリーム・ボーイ」と「けだもの」の概念のつながりにいまひとつ釈然としなかった。ゲーム版でその辺りが補完されることに期待。それぞれに面白いテーマであるし、たとえば妖精=牧神?、男性性、魔性の男などはひとしきり掘り下げられそう。
 櫻木みわさんの「大恋愛」は、フランス人の父と日本人の母を持つ女性が、父方の祖父の葬儀の折に思い巡らせたことを描いた小説だ。恋愛小説ではなく、あくまで大恋愛についての思索というアプローチが面白かった。書き出しや末尾の研ぎ澄まされた文章が読者をテーマにひっぱりこんでくる。
 評論や随筆の章も興味深く、特に枇谷玲子さんの「デンマークのテレビ番組と作家トーヴェ・ディトレウセンの結婚生活」や、雪田倫代さんの島尾敏雄・島尾ミホの紹介「海辺の歌と恋」、神野龍一さん「恋愛できない上方落語」、松本友也さん「花は視線に復讐するーーIZ*ONEのカムバック」等に、雑誌ならではのバラエティ豊かな情報にたまたまたどりつく喜びを感じた。
 レロさん(中村香住さん)の「誰が「百合」を書き、読むのか」はP.112-115で語られている危惧に対しては共感する点も多々あるのだが、私にはその後の章が推測に基づいた批判であり、少し危うく思えた。当該批判部分は確かにレロさんの指摘のとおり、どういう意味かを明確に解釈できないのだが、私はBLや百合の「別れを前提としたはかなさ」や「通常の男女ペアより大きな苦労」あたり、それらが醍醐味として歓迎されてしまっている状況を指しているのではと予想している。
 当事者をめぐる問題に加えて、BLや百合のコミュニティに当事者の他に「いわば非当事者だがこのジャンルに救いがあって切実に必要としている人たち」がいる状況とどのように折り合いをつけることになるかというのは、私にとっても関心事である。また、ジャンル作家のジェンダーバランスの偏りについても引き続き気にかけていきたい。

 余談だが、本邦では当事者か否かの確認がそもそも難しいのではと思っている。英語圏のSF&ファンタジー関係者は、SNSのbioやZoomの名前の横に三人称(pronouns : She/her, they/their, he/his等々)を書いている人が多いのでジェンダー自認は確認しやすい。セクシャリティも明記している人も多い。しかし日本にそういう文化はないし、当然ながら情報開示をせまるわけにはいかない。創作においては筆名率も非常に高い。百合SF関連に参加している人の中には、過去に自身のセクシャリティについて言及していた方が複数人いたと記憶しているが、はっきりとはオープンにしていない方もいる以上、具体的に挙げることはできない。

 なお「英語圏ではオープンにできていいね」と言いたいわけではない。現に「筆名だから開示できるのであって、今住んでいる米国の片田舎でこれらをオープンにするには身の危険を感じる」という人を実際に見かけたことを付け加える。さらに真偽を確かめることができなかったが、同性愛要素のある作品を当事者が書いていると明らかにしたかった出版社が、作者の同意を取らずにセクシャリティを公にしたケースがあったという恐ろしい話を英語のTL上で2度ほど見かけた。

おわりに

 特にうまくまとめるつもりで書いた感想ではないが、通して読んで強く感じたのは恋愛と社会のつながりだった。個人と個人の関係なのに、往々にして周囲の人間にも影響していく。個人と個人の関係なのに、ときに社会的承認や人生設計に影響される。

 私たちは外国の話、昔の話、自分とジェンダーやセクシュアリティの異なる登場人物の愛の話にも共感可能である。共感の得意不得意もあろうし、他人の関心の優先順位に口を出すことはできない。しかし社会や家族に所属している以上、ほとんどの人が無関係ではいられないテーマだ。

 他人の愛や欲望を尊重し、まじめに肯定する。私はそうありたいし、今回、さまざまな愛に耳を傾けるめったにない機会を持ててよかった。

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