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だれも教えてくれない純文学とエンタメ小説(大衆文学)のちがいと、純文学が売れない理由についてあえて考えてみた。

 フリーランスで仕事をしていくにあたり「読書」を軸にしようと決めた以上、ぼくはじぶんの読書だけは信じ抜かなくちゃならなくて、それがもしできなくなってしまったならばなにもかもやめなくてはならない。そんなことをよくおもう。
 ただその一方でじぶん自身の読書がいかに偏っているかも自覚しているわけで、とりわけ語りの技法や構造などの言語表現への関心が高いため、どうしても物語そのものへの関心が(ないというわけではないが)相対的に低くなってしまう。すると、
「お前の読書はつまんなそう」
 ということをいわれることが、これまでに本当に何度もあった。ぼく自身、読書をめちゃくちゃたのしんでやっているつもりではあるし、小説に限っていえば、そもそもなぜ小説が書けてしまうのかという命題めいたものは、読書のたびにそれなりに具体的な姿を一瞬みせてくれる。
 その感覚こそ書評であれ翻訳であれ実作であれ、ぼくが特に力を入れている活動を根底で支えているものなのだけれど、しかしこれがどうやら一般的でないとはじめて知ったときはおどろいた。みんな、こういうことを不思議におもうものだと、二十代半ばくらいまでわりと真剣に信じていた。

 そういうこともあって、ぼくがこれまでに読んできた小説の、特に「実作しないひとの感想」というのは、できるだけ深く、そして数多く知りたいなとおもう。
 実作をしない、ということの特別さを良い感じのことばでいうのは難しいのだけれど、「言語表現の実践を切実な問題と見做さない人(というと、悪意はないのにかなり響きが悪くなってしまう泣)」にとっての小説のありかたはやはり世界で圧倒的多数を占めるのは事実だとおもっているからで、そして、その事実がある場所といまじぶんがいる場所とがいったいどれくらい離れているか、常に客観的に知っておきたい。その距離によって、たぶんぼく自身の読書観も更新される気がするから。

 つまるところ、多くのひとの関心は「わかりやすい物語」にある。
そして小説において技術的な新規性というのは、ほぼ求められていない。
たくさんのひとと小説の話をしてきて感じたのは、このことだった。

 さて、ここで「ジャンル」の話をしたいとおもう。
 日本において小説には大きくわけて「純文学」「エンタメ小説(大衆文学)」のふたつがある、という話はなにかとよく出るのだけれど、しかしそれらの「内容的な」定義はほとんど聞かない。
 そしてこれまでにけっこう多くの読書家のひとや作家や編集者のひとと話をしたりしてきたけれど、「この小説は文学だよね」「これはエンタメだよね」という話をすることはまずない。そもそもジャンル分けというものが便宜的なものでしかないということをみんなわかっているからなのかな、とおもった。
 というか、純文学だのエンタメだの、そういう枠組みで小説を話すことはなんとなく業が深い気がするし、できれば避けたい話題だからみんな積極的に話すことはないのかな、ともおもう。

 というわけで今回はかなり私見ではあるけれど、「純文学かエンタメか」というできれば話したくない内容について、いろんな角度から考えてみたいとおもう。
 個人的に、あんまり好きじゃない話題だけれどもこういう話のニーズはありそうなので所感くらいは述べておこうかなとおもいたったものの、話にほとんど一般性がないことについては、あらかじめご了承ください。

出身の文学賞や雑誌で機械的にジャンル分けされる

 純文学作家かエンタメ作家かというのは、当事者たちにとってかなりどうでもいい問題だと扱われているけれど、一般に「文學界・新潮・文藝・群像・すばる」の五大文芸誌や早稲田文学などでデビューした作家を「純文学作家」と呼び、それ以外が「エンタメ作家」と呼ばれる風潮があるように感じる。群像からデビューしたはあちゅうは機械的に「純文学作家」になるみたいな感じだ。

 そしてエンタメ作品はさらに細かい分類がなされていて、ミステリ・ホラー・SFとかなんとかいろいろある。もちろん、それも「このミス」「ホラー大賞」「創元SF短編賞」などジャンルのはっきりした賞が出身だと「ミステリ作家」「ホラー作家」「SF作家」と機械的に呼ばれたりする。
 広義のエンタメを志向するらしい「オール讀物」出身だと「エンタメ作家」特に独自の生態系を築いていると言えそうなくらい独特なのが「ラノベ作家」やたら個性的な「メフィスト賞」出身の作家を「メフィスト作家」と呼んだりもするけれど、まぁ賞や出版社によってカラーというのは確かにあるということだけ憶えてもらえればそれでいいです。

ジャンル分けが必要な理由は「本を売るため」

 そもそもジャンル分けなどのカテゴライズは整理整頓のために不可欠なもので、大量の書籍を扱うとなればなんらかの分類がないことには手のつけようがない。そしてたとえば本屋にいったときに「こんな本が欲しい」とあらかじめ目的がそれなりに決まっている場合、目当ての本の検索性というのはめちゃくちゃ大事なのはいうまでもない。欲しい本が見つからなかったら、単純にイラッとくる。

 本に限らずだけれども、こうした情報の整理がきちんとなされることのメリットは「需要に対して答えやすい」というものだけじゃない。「こういう商品はこういう層に売れる」というデータを集めることができるし、ベストセラーを生むための戦略を立てる上で重要な武器になる。
 ざっくりいえば、「本が売れる仕組み」をかっちり作るためにもジャンル分けは必要だというのは現実問題としてあると思う。
 この辺の問題はぼく自身あまり得意じゃない(そしてそんなに興味もない)ため、このへんでやめておくことにする。

「売れない」純文学

「素晴らしい作品は売れない」
 と、たしか日本でも著名な純文学出身のとある作家がいっていたような気がするのだけれど、もちろんかれの主張する「素晴らしい作品」とは日本で純文学に相当するものだった。具体的な名前を出すのはやめておく。

 実際に純文学というのは、マジでひくほど売れないらしい。

 本屋さんで平積みにされている文庫本とかは「祝100万部!」とかそういう景気のいい言葉がバンバン飛び交っているのだけれど、純文学の単行本っていうのは「1万部いったらスゲェ売れてる」というのが実情らしい。聞いた話だと初版は3000部とかが平均的で、増刷となって2刷になっても1000部追加とか、そういう感じがふつうらしい。しかしそれ以上に「その数が実売じゃない」ということも忘れてはならないところだ。

 こういうと、先に挙げたとある作家の言葉はくだらない言い訳に聞こえてしまう。実際、新聞か何かで読んだときにぼく自身もあんまり好感を持てなかった言葉ではあるものの、しかし「純文学の売りにくさ」は割と重要な問題だと思う。 
それなりに世の中に揉まれてきた人であれば、「売れる・売れないを左右するのは売り方だ」ということは、肯定したくなくても否定はできないんじゃないかと思う。
「どのくらいの規模のどこの層をターゲットにするか」「ターゲットに対してどう訴求するか」「どう話題を集めるか」とか、そういう戦略がしっかりしている本が売れるというのは当たり前の話で、そのためにこそ「本を売る仕事のひと」がいるわけなのだから。
 最近だと、ちょっと面白い宣伝をしていたのが宿野かほる「ルビンの壺が割れた」だ。

 発売前に全文をネットで公開してキャッチコピーを募集するといった手法をもちいてこの本の話題は拡散された。西野亮廣の絵本とかでもそうだったけれど「無料」というのがひとつのマーケティングのポイントになっているのかな、と思った。もちろん本質はそこじゃない。無料という切り札を切って、「ひとりでも多くの当事者を作る」ということにこそ、両者の戦略の狙いがある。
 この「ひとりでも多くの当事者を作る」という戦略は、この主題だけでかなりでかい話になるくらい重要な話で、小説投稿サイト出身の作家(小説家になろう、カクヨムなど)の言及にも欠かせないことだと考えている。

純文学が売りにくい理由

 営業職をしていたぼくとして、ぶっちゃけ「売りやすい本」と「売りにくい本」だと、そりゃ「売りやすい本」に力を入れたいという気持ちはよくわかる。
 売り上げ部数はそのまま定量的な評価基準になるだろうし、無駄な労力を使いたくはない。そもそも時間も労力も限られたなかで、利益見込みがはっきりしているものにこそコストを割きたいと考えるのはごく普通で、もちろん、それは担当者が努力していないという意味ではなく、物理的に手を回せなくなるという意味だ。

 そして重要なポイントは、エンタメと純文学なら性質上エンタメの方が売りやすいということだ。
 その理由は作品の内容もあるだろうけれど、エンタメ作品は「純文学に比べてカテゴリが細分化されている」という点に尽きるとおもう。つまり、ジャンル分け可能という「わかりやすさ」が、明確なターゲティングを可能にし、訴求ポイントも押さえやすいという性質を与えている。「これはこういう本です!」と言い切れるわかりやすさって「売る」ことだけ考えたらめっちゃ大事で、広告を作りやすいし。

 それに比べて純文学はあまりにも雑然としている。

 作品としてそんなことは本当にどうでもいい問題なのだけれども、売る側の実際問題として「熱心な読書家以外の誰をターゲットにしたら良いのかわからない」という作品が多い。
 純文学が雑然としているのには、作家がデビューする経路は日本では現状、新人賞ぐらいしかないということが関係しているとおもう。

 エンタメの新人賞は募集ジャンルがかなりはっきりしているのに対し、純文学は「あなたが文学とおもうものならなんでもおk」というスタイルだ。その結果、純文学の賞はわりと消去法的に応募先の候補として上がってくるため、ジャンル全体としてやたらごちゃごちゃした感じになる。わりと「仕方なく純文学」というひとは多い気がする。
 とはいえ、「じゃあ純文学のジャンルを細分化したら売れるのか?」というわけでもない。言語表現そのものを主たる問題として扱ったりしてもほとんどの人に関心がないだろうし、「これまでに誰も使ったことのないような新しい表現」なんてものを期待する読者は読書好きを除いてほとんどいない。重厚な私小説で人生観を変えたい読者なんてほぼいない。よくわからない小説を読んで、よくわかんねwwwwwwとか言って喜ぶやつもまずいない。

 というように、純文学は「エンタメ小説の守備範囲以外の場所(残りもの)」であるがゆえに、そもそものターゲット層が非常に小規模なんじゃないかとおもう。つまり、売りにくいものの寄せ集めになってしまっているみたいな面があるのかもしれない。
 そう考えたら、某作家が言っていた「素晴らしい作品は売れない」という言葉の意味を好意的に捉えられそうな気もする。「どのようにも名付けられない、本当に得体のしれない未知のもの」は、いうまでもなく「売りにくい」性質を持っているから。
 もちろん、新規性だけが素晴らしさじゃないんだけど、ぼくとしてはやっぱり読んだことのないもの、自分が信じていた価値観を打ち砕いてくれるものを読みたい。 

 ……以上は、もちろん物事を大げさに捉えたホラ話であり、単なる仮説のひとつ。

 このブログはあくまでフィクションなので、こういうことを簡単に信じないでほしいと思います。

ブログ「カプリスのかたちをしたアラベスク」より転載

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