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第1回「たくさん読んだら上手くなる」は本当か?

はじめに──「批評家になるな!」へのささやかな抵抗

 つい先日、おもうところがあって「#RTした人の小説を出来るだけレビューする」というものをはじめてみた。
このマガジン「#RTした人の小説を出来るだけレビューする をやってみた」では、多くのアマチュア作家の作品を読み漁りながら考えたことの備忘録として連載していきたいと思う。

note内で公開されているレビュー済み作品

 主な動機はごくごく個人的なものではあるのだけれど、その背景のひとつに書評や批評がコンテンツとしてどうなのか、という問題意識がないわけではない。
 ぼくは仕事としてWEBメディアでちょくちょく批評色の強い書評を書いている。しかし、ぶっちゃけ数字だけをみれば書評というのはコスパが悪く、このまま仕事としてやっていくことにちょっと限界を感じているのが現状だ。
 でも、やっぱりぼく自身は文芸書や海外文学の影響を受けてここまできた。じぶんでも小説の実作をはじめ、いまなお「小説はどうやったら書けるのか?」みたいな興味を抱きつつ生活をしているわけで、読書そのもののクリエイティビティはもっと信じていたい。そして「本を読む」ということをたんなる情報摂取ではなく、それじたいの創造性がより広く認知されてほしい。
 だからこそ書評(や批評)の仕事は続けたい。そういう問題意識を前回のnoteに書いた。

 そこで「批評をもっと身近に感じてもらう」ということを思い立った。

 特に小説において、批評というものはあまり好意的にとらえていないひとが多いと感じることがあるのだが、ぼく自身がもともと自然科学の研究をしていて、小説を「現象」というふうに解釈する傾向がある。だからこそというのか、「小説っていったいどういうものなのか」とか「どうやったら小説を書けるのか」とか「どのような散文を小説とみなせるのか」という関心が非常に強く、小説を読んで抱くものも批評的なカラーを帯びる傾向があった。

 そのことを友人にいうと、
「かわいそう」
 ということを度々いわれてきた。

 そこには「小説は物語に身を委ね、その世界を純粋にたのしむことこそ正義」という価値観があり、それができずに小難しいことを考えることを「小説を純粋にたのしめていない」と見なされることは少なくなかった。
 しかし実際に、ぼくにとって小説は自身が実作をはじめる前からいまなお「おもしろい」ものでありつづけている。

 小説の読みかたは自由だという主張も多い。
 感じたままの像をとらえれば良い、などの言説はよく見かけるけれど、そのなかに含まれるはずの批評的態度はときどき排除されている。実際に、

 批評家になるな!!!

 という定型句も小説以外のさまざまな場面でたくさん見かける。たとえば小説というフィールドでそれを考えたとき、「小説というものをすこしでも知ろうとする試み」がどうしてクリエイティブな行為として認められないのだろうか、という不満があった。どうして「批評家(書評家)<実作者」という構図が暗黙に了解されているのだろうか。

 小説批評は、「小説」という得体の知れないものに接近するための手続きである。

 このような定義をひとまず導入してみると、批評と実作にはそこまで大きな区別はない。ぼくは(いちおう)実作者でもあるためにそれを強く感じる。
 そういうこともあって、Twitterではじめた非商業作家を対象とした「ミニ批評」は、「批評をより身近に感じてもらうための試み」という意味も含まれている。

アマチュア作家の「読まれるために読む」という構造

と、いうわけで、さっそくTwitterで募集をかけてみた。

 するとありがたいことに、一晩でたくさんの方が自作をご紹介してくれた。
 ただひとつ申し訳ないことがあって、それは「小説家になろう」や「カクヨム」で公開されている方のライトノベル風(?)の作品について、どうもぼくが良い読者ではないということだった。ある程度予想していたとはいえ、こうした作品を通読するのはいまのところ時間的・精神的に余裕がなく、まだざっと目に通してみた程度にすぎない。コメントをまとめるにはまだ時間がかかりそうである。

 ちなみに、ぼくは商業デビュー前の作家の小説はそれなりに読んできた人間だとおもう。
 ぼく自身が小説を書くうえでも小説投稿サイトは利用したことがあり、そこで友だちもたくさんできた。小説投稿サイトで仲良くなった友だちとの縁は基本的に「小説を書き続けている限り」続いていて、逆をいえば小説を書かなくなったら切れる。
 作品ベースで相互批評するなか、友だちたちは公募文学賞で最終候補になったり受賞したりするようになり、ぼく自身も徐々にひとに読まれうるものが書けるようになっていった。こうした実作者同士の作品ベースのコミュニケーションは、互いの実作をより高い次元に押し上げるためには有効だとおもう。もちろん「やりかた」をまちがってはいけなくて、それについてはまた今度の話にしたい。

 話を戻そう。
 いま、小説の書き手というのはかなり多い。すくなくとも、肌感ではあるけれど10年に比べて「はるかに多くなった」という感覚がある。それは「小説家になろう」や「カクヨム」といった小説投稿サイトの功績が大きいだろう。
 小説投稿サイトに自作を公開する以上、読者を獲得したいというのは当然の発想だ。これについてはぼくも経験がある。ただサイトに自作を放置しているだけでは「よっぽどのもの」でない限り反響というのはない。そこで作者はサイト内で読者となって他の作者の作品にコメントをつける。
 するとその「お礼」としてコメントを返してくれることがある。これを繰り返していくと読めば読むほどコメント数は増えていき、コメントの多い作品はサイト内で目立ち、するとじぶんが読んだ作家以外の作家や「読み専」からの感想も増える。
 ぼくが小説投稿サイトを利用していた当時、そうしたユーザー間のコミュニケーションの活発さが「読まれるため」の基本戦略だった。

 ただ、ぼくやぼくの友人は一部(具体的には佐川恭一)を残して小説投稿サイトを短期間でやめてしまった。
 使用しなくなった理由は個々によってちがうだろうし、特に聞いてもいないのだけれど、ぼくに関していえば、

・じぶんの小説の是非を問うに信頼できるひとが見つかった
・別に大勢に読んでもらいたいわけではない
・文学賞に応募する小説の公開は原則できず、小説を投稿する余裕がない

という理由があった。大勢に読んでもらいたいわけではない、という点に関しては複雑な事情があって、あくまでも興味は反響以上に「じぶんは次にどんな小説が書けるか?」にあったためだ。
 するとサイト上での他のユーザーのコミュニケーションがめんどうにもなる。小説のことを考えるために読みたいものも増え、自然とサイトから足が遠のいた。

なぜかれらの文章を「素人臭い」と感じるのか?

 小説投稿サイトにある小説の大半は、どことなく「素人臭い」。
 なにがどう素人臭いのかの話をしだすと長くなるが、非商業出版作家の文章を読むと「もうちょっとちゃんと本を読んだ方がいい」とおもうことがちょいちょいある。そしてこの感覚というのはおそらく実作者以上にいわゆる「読み専」のひとのほうが強く感じるんじゃないだろうか?

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