見出し画像

【第4回】「小説が上手い」とはどういうことか?──Ian McEwan “Solid Geometry”冒頭

文章を「書く」練習をしてもそんなに上手くはならない

 スポーツでも芸術でも「上手くなりたい」という感情は一般的にあって、それらに対するハウツーがネット上に溢れている。職業上、小説や文章を書くことについてのハウツーを目にする機会が多いのだけど、だいたいは「しのごの言わずに書け」が落とし所になっている。これはほぼ正しいのだけれど、このことばだけではわずかに不正確なところがある。
 まず、文章や小説を上手くなろうとおもったところで、最初に待ち受ける困難は「上手い文章・小説とはなにか?」というものだ。文章や小説は書き手も読み手も不完全なフィールドである以上、「上手い」の基準をまずじぶんで設定する必要がある。読みやすいとか、読み手の琴線に触れるとか、具体的だったり抽象的だったりするいくつもの「文章を良いものにする(だろう)要素」はとっちらかっている。そのとっちらかった要素を断片的に拾い上げてフォーマット化されたのが世に溢れている「良い文章の書き方」だったりするもので、視野を広げれば広げるほどそこで主張されていることの説得力は落ちていく。無論、これはぼくの主観で、勝手にいい散らかしているにすぎない。
 いわゆる世間でいうところの「文章が上手い」というのは、ことばが持つふたつの側面──伝達性表現性──のうち「伝達性」がちゃんと機能している際に与えられる評価だ。適切な語彙の選択、可読性、ロジックの展開などなど、そうしたギミックはもちろん「書く」という行為によってのみ鍛錬される。「しのごの言わずに書け」と言われる所以は、この基礎的な技術が習得されていない書き手が多いという事実に由来している。
 しかし、「書く」ことによって無限に文章が上手くなるなんてことはありえない。極論であるけれども、大江健三郎とか村上春樹とか、そういう「書き続けている人間」の文章は「文章力」なる謎の評価軸を設定したときに常に「上手くなり続けているか?」ときかれたならば、どう答えていいのか難しくなる。ひたすら書き続けているのだから、原理的には「今が一番上手い」ということになるはずだ。考えるまでもないけれど、そんなことはありえない。これはもちろん「かれらが下手になっている」とかそういう短絡的な意味じゃない。もうすでに技術的な次元での「文章の上手さ」や「小説上手さ」という概念が通用しないということだ。

 というわけで、ぼくはこんな風に考えている。つまり、文章や小説を上手くなるために「書く」ということが必要条件にはなる。しかし、ある一定のラインを超えたら話は変わってくる。文章や小説を「一般に了解されている程度の技術」では説明できなくなった領域では、「書く」という鍛錬「だけ」ではどうにもならない。
 ライターやブロガーや作家といった文章を仕事にする人種に必要な「上手さ」とは、この「書くだけ」では太刀打ちできな領域にあるものだ。そこでなにをするかはそれこそ書き手のスタンスや思想に委ねられている(=勝手にじぶんで考えろ!)わけであり、ぼくとしては他人のことなど知ったことではない。
 が、ひとつだけいうことにすると、ぼくはいわゆる「良い文章・小説」を書くために絶対に必要なものとして「徹底した精読」があるとおもっている。そして、こうしたたしかな読書経験(=”良い”文章を”良い”クオリティでたくさん読んできたという経験)を積んできたひとの文章というのは、「書く」という経験がたとえ少なくても質が高い。これはぼくが経験的におもっていることにすぎないけれど、いわゆる「文章力」とかそういうものは、「書く」以上に「読む」の影響を強く受けている。かなりそれを確信している。

とにかく小説が「上手い」マキューアン

 散々「上手い」という価値観についての懐疑的なスタンスを開陳してきたわけだが、イアン・マキューアンの小説に限っていえば、困ったことに「上手い」としかいいようがない。そう、マキューアンはとにかく小説が上手い。
 もちろんいうまでもないことだが、これは皮肉でもなんでもない。代表作である『贖罪』『ソーラー』『未成年』など主要作品の翻訳に恵まれたイギリスの作家であるかれは、ぶっちゃけカズオ・イシグロよりも先にノーベル文学賞をとるとおもっていたくらいに優れた作家だ。かれが描き出す小説の規模は決して小さくなんてないのだけれど、その巨大さに対してどこまでもクレバーであり鋭く、そして悪趣味な話題やエログロを扱いながらも上品さと知性に富んだ文章を徹底している。マキューアンはぼくの知る限り、「書く」という技術だけで、どんなに素朴でくだらない想像力でもひとを圧倒する小説に変えてしまえる唯一の作家だ。純粋かつ圧倒的な「書く」技術によってかれの作品は構築されている。

 というわけで、今回はマキューアンのデビュー短編集『FIRST LOVE, LAST RITES(邦題:『最初の恋、最後の儀式』)』から、"Solid Geometry"の冒頭を翻訳課題とし引用する。参考翻訳として、宮脇孝雄訳の『立体幾何学』を引用した。

(原文)
   In Melton Mowbray in 1875 at an auction of articles of 'curiosity and worth', my great-grandfather, in the company of M his friend, bid for penis of Captain Nicholls who died in Horsemonger jail in 1873. It was bottled in a glass twelve inches long, and, noted my great-grandfather in his diary that night, ‘in a beautiful state of preservation'. Also for auction was the unnamed portion of the late Lady Barrymore. It went to Sam Israels for fifty guineas. My great-grandfather was keen on the idea of having the two items as a pair, and M dissuaded him. This illustrates perfectly their friendship. My great-grandfather the excitable theorist, M the man of action who knew when to bid at auctions. My great-grandfather lived for sixty-nine years. For forty-five of them, at the end of every day, he sat down before going to bed and wrote his thoughts in a diary. These diaries are on my table now, forty-five volumes bound in calf leather, and to the left sits Capt. Nicholls in the glass jar. My great-grandfather lived on the income derived from the patent of an invention of his father, a handy fastener used by corset-makers right up till the outbreak of the First World War. My great-grand father liked gossip, numbers and theories. He also liked tobacco, good port, jugged hare and, very occasionally, opium. He liked to think of himself as a mathematician, though he never had a job, and never published a book. Nor did he ever travel or get his name in The Times, even when he died. In 1869 he married Alice, only daughter of the Rev. Toby Shadwell, co-author of a not highly regarded book on English wild flowers. I believe my great-grandfather to have been a very fine diarist, and when I have finished editing the diaries and they are published I am certain he will receive the recognition the recognition due to him. When my work is over I will take a long holiday, travel somewhere cold and clean and treeless, Iceland or the Russian Steppes. I used to think that at the end of it all I would try, if it was possible, to divorce my wife Maisie, but now there is no need at all.

 今回はいきなりちんこの話をすることになる。

続きをみるには

残り 11,251字
この記事のみ ¥ 150

頂いたご支援は、コラムや実作・翻訳の執筆のための書籍費や取材・打ち合わせなどの経費として使わせていただきます。