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煮物と愛

ああ、またやってしまった……。

煮物の味見をして、一旦閉じたばかりの鍋のフタを、私はあわてて開ける。落としぶたにしているキッチンペーパーを箸で退け、料理酒をふた回しする。できあがる前に気づいてよかったと、自分をなぐさめる。

その日につくっていたのは、大根とにんじんとしいたけをかつお出汁で煮たものだった。かつお出汁、といっても、顆粒だしの煮汁にかつお節をたっぷり入れたもので、特別ていねいに出汁をとったわけではない。けれども、煮込んでいる最中には間違いなく「おいしい煮物」という感じの、かつお出汁の匂いがした。

それに、お醤油を入れてあったものだから、鍋の中の煮物の色はおいしそうな茶色である。煮物も焼き物も、ついでに言えば炊きたてごはんのおこげも、茶色のものはおいしい。茶色は正義なのである。

だから私は、できあがる直前の煮物を目で見て確認したつもりになって、「これなら大丈夫」と思ってしまったのであった。

けれども、料理は見た目ではない。問題は「味」である。

煮物をつくって「コクが足りない」と思ったら、たいてい料理酒を入れ忘れている。それを何度も経験しているから、煮込んでいる途中で忘れずに味見をするようになった。

案の定、その日も、味見をしたら「なにかが足りない……」ということに気づいた。

料理酒。

無色だから気づきにくいけれど、その存在感は大きい。

見えないけれど、大切なもの。

そういう哲学的な(?)問いに対して、出てくる答えといえば……。

そう。それはたいてい「愛」である。

見えないけれど、大切なもの。見えないから気づきにくいけれど、存在感が大きいもの。

若いころの私にとって、その「愛」はイコール「恋愛」であった。

目には見えないけれど、その存在は大きかった。自分の人生の中心は恋愛だと思っていたし、仕事よりも生活よりも、恋人との時間を何よりも優先させた。

けれども今、私にとって恋愛の「愛」は、それほど大きな存在ではない。

「愛」の意味って、変わるんだなぁ。

今、私にとって大切な「愛」は、自分への愛である。食べること、眠ること、働くこと。そういう当たり前のことを、自分のためにやっている。

だからこそ、見えないけれど大切なものを忘れないようにしている。忘れないように、時々たしかめている。

自分への愛は、あるか。

煮物における料理酒は、人生における愛なのかもしれない。

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