ケの中のハレ。
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ケの中のハレ。

びんこ/長谷川敏子

手こずっていた原稿をようやく書き上げて、編集担当へ送った。

その帰り道、乗り換え駅の構内にある期間限定の店舗に、カニの看板が出ているのに気がついた。よく見ると、ショーケースのガラスの向こうにカニの身がのった押し寿司やいなり寿司が並んでいる。

「今なら30パーセントオフでお買い求めいただけます。いかがですか?」

ジーッとショーケースの中をのぞく私に、店員さんが声をかけてきた。そういえば、すでに午後8時をまわっている。もうすぐ閉店時間なのだろう。

「あ、そうですか……。それじゃ、この6個入りのいなり寿司を……」

「はい、ありがとうございます」

店員さんはニコニコと笑顔で返事をすると、テキパキといなり寿司を包み始めた。「ビニール袋は有料ですが、どうしますか?」と聞かれるかと思ったが、そんなことはなく、いなり寿司と割りばしをサッサと袋に入れている。

「お待たせいたしました」

「ありがとう」

私は会計を済ませると、いなり寿司の入ったビニール袋をぶら下げて、通路を歩いた。この沿線でも在宅勤務が増えているのか、普段は人がいっぱいのこの駅も、それほど混み合っていない。私は、わが家の最寄り駅へ向かう電車に乗り換え、家路についた。


日本の文化には「ハレとケ」がある。

私がそれを改めて意識するようになったのは、料理研究家の土井善晴さんが書いた本を読んでからだ。

料理研究家の土井先生だから、もちろん料理に関することが主で、料理にも「ハレとケ」がある、と書いてあった。かんたんに言えば、ごちそうは「ハレ」で、普段のごはんは「ケ」。だから、いつもいつもがんばって立派な料理をつくる必要はなくて、季節のものをシンプルにいただけばよい、というようなことが書いてあった。

おかげで私はそれ以来、自分で毎日の料理をつくることが苦ではなくなった。食材に塩コショウ、またはお酒とお醬油をふり、焼いたり蒸したりするだけの料理を、最近はよくつくっている。

それから土井先生によれば、「ハレ」はいわゆるお祝いやお祭りのときだけではなく、日常にもある。

たとえば朝、起きたとき。寝ていた時間を「ケ」とするならば、起きたときは「ハレ」。仕事中の時間を「ケ」とするならば、仕事が終わっておいしいごはんを食べるときは「ハレ」というような内容だった。

私は、土井先生のこうした考え方を知ってから、コロナ禍にあっても落ち着いて過ごせるようになった。

コロナ禍については、「やまない雨はない」と表現しているのを、いろいろなところでよく見かける。けれども、この「雨」はちょっと長すぎると、私は思う。

長すぎる「雨」のせいで、心にカビが生えそうになっていた頃、土井先生の「ハレとケ」の考え方に出会った。そして、コロナ禍にいる自分を「ケ」と考えるようになった。コロナ禍が終わって、以前のような日常が戻ってきたときが、まさに晴れて「ハレ」なのだと思う。


カニのいなり寿司を買って帰った日は、私にとって小さな「ハレ」の日であった。なにしろ、手こずっていた原稿を書き上げて送ったのだから。

どんなに心が晴ればれとしていても、行きつけの居酒屋でおいしいお酒を、というわけにはいかないのが、コロナ禍の悲しいところだ。仕方がないから、最寄り駅の近くにあるスーパーで、いつもより少しぜいたくなお惣菜でも買って帰ろう、と思っていた。そんなときにたまたま見かけたのが、カニのいなり寿司だった。

「これはこれは、ハレの日にふさわしいじゃないですか」

家に帰って、冷蔵庫に冷やしてあった日本酒を用意する。ついでに、きゅうりの漬物を取り出して、小皿に盛り付ける。

食卓に、赤いカニの身がのったいなり寿司、緑色のきゅうりの漬物、透明なグラスに入った日本酒を並べる。

「いただきます」

両方の手のひらをしばし合わせた後、まずは日本酒をひとくち。お酒の香りを楽しみながら、箸置きの塗り箸を取り上げる。

「さて、と……」

6個あるいなり寿司のうち、カニが3種類。タラバガニ、毛ガニ、ズワイガニ。その他はイクラ、タラコ、カズノコで、いずれも私の大好物ばかりである。どれから食べようか、迷いに迷ったが決められないので、カニの側から順番に食べた。

食べながら、ふと思った。

コロナ禍という長い「ケ」の中にあっても、たまにはこうして「ハレ」と思える日がある。この長い「ケ」は、もうしばらく続きそうだけれど、そんな中にもある、日々の小さな「ハレ」を見つけて過ごそう。


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びんこ/長谷川敏子
東京在住のライター。山形→沖縄のテレビ&ラジオ局→東京。書く&司会も。得意分野は沖縄・酒・食・ビジネス系など。「いろんな自分があっていい」なのでnoteのテーマは絞らず、徒然に書きます。仕事内容はホームページをどうぞ。 https://www.binco-hasegawa.jp/