ひとりでも、しあわせおでん。
寒い日は、熱燗にかぎる。
天気予報では、前日から「関東にも大寒波がやってくる」と伝えていた。
だからその日は、日が暮れるよりも少し前に家を出て、居酒屋へ行こうと思っていた。熱燗をちびちび飲みながら、ひとり用の鍋でもつつこうと考えていたのである。
しかし……。
天気予報は、大当たりにあたった。あたりすぎて、私の予想をはるかに超え、寒すぎて外に出るのもイヤになった。
なにしろ、東京に雪が降ったのである。
「よりにもよって、雪かぁ……」
私は、在宅ワークの手を休めて窓の外を眺め、独り言ちた。鉛色の空から、大きくて白いものが、ふわりふわりと落ちてくる。その白いものは、道路に落ちるととけるのだが、街路樹の葉っぱや駐車場に停めてある車に落ちると、とけずに白いまま積もっていく。
「外、寒そうだなぁ……」
どのくらい寒いのか、窓を開けてたしかめてみればいいものを、私はそれすらも億劫になって、窓の外から視線をはずし、再び仕事に戻った。
どのくらい時間が経っただろうか。窓の外は薄暗くなりかけていた。仕事もひと段落したので、もう一度、外を眺めると、雪はまだ止んでいなかった。街路樹の葉も、駐車場の車も、白くなっている。
「あ~、こりゃ、ムリ」
雪国生まれのくせに、寒いのがものすごく苦手な私は、その日に居酒屋へ行く計画をあきらめた。居酒屋どころか、外へ出たくないので、近所のスーパーへ買い物に行くことすらもあきらめた。
だけど、熱燗は飲みたい。おつまみは、どうしよう……。
日本酒は常備してあるし、徳利もおちょこもあるから、熱燗は自分でつければいい。問題は、おつまみである。
一応、計画では「鍋をつつくこと」としていた。けれど、買い物にも行かないと決めた今、はたして家にある材料で鍋料理ができるだろうか?
私は、仕事をしていた部屋を出てキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。鍋をしようにも、肉も魚もない。ネギもキノコ類もない。白菜などの葉野菜もなかった。
「葉野菜がないのは致命的だなぁ。鍋はムリ。どうしよう……」
改めて冷蔵庫の中を見て、食材を確認する。玉子、豆腐、こんにゃく、さつま揚げらしきもの、しらす干し。しらすおろしにしようと思っていたから、大根おろし用に買っておいた大根が半分だけ。
「あ、おでん、できるかも」
食材を眺めていたら、ふと思いついた。けれども実は、私はおでんを自分でつくったことがない。ひとり暮らしの私にとって、おでんは、おでん屋に食べに行くか、コンビニで買うものになっていた。
「いや、でも……。おだしで煮込むだけだから、できるでしょ」
一応、家にある料理本で「おでん」の項目を開き、つくり方を確認する。だしの取り方や材料の下ゆでの仕方などが載っているが、ズボラな私はそんなことをするつもりはなかった。
「だしは顆粒の和風だしがあるし、自分用だから下ゆではナシにするとして……」
おでんをつくったことのない私が確かめておきたかったのは、おでんを煮込む時間である。つくったことがないくせに、食べることだけは大好きだから、「おでんは時間がかかる」ということくらいは知っている。料理本に書いてある煮込み時間を見ると「約40分」と書いてあった。
「よ、よんじゅっぷん!」
私は再度、料理本をガン見した。料理本というのは、だいたいが写真メインなので、つくり方は小さく書いてある。もう一度、その小さな文字を確認したが、やっぱり40分だった。
「そんなにかかるのかぁ……」
コロナ禍になってから、自炊することが増えた。それまでは外食ばかりしていた私が、外出自粛や飲食店の営業時間短縮要請などが出ているから、仕方なく、我が家のキッチンに立って料理をしている。自分ひとり用の料理だから、手間も時間もかけることなく、手早くできるものばかりつくってきた。
だから、ひとりで食べる料理に40分もかけたことがない。
「まぁ、きょうは仕方がないか……」
冷蔵庫の中にある食材を確認して「おでんができるな」と思った時点で、すでに私のおなかは、おでんモードになっていた。もう、おでん以外をつくる気にはなれなかった。
「さて、と……」
煮込みに40分かかるとわかった私は、気合いを入れるため、めったにつけないエプロンを使うことにした。むかしむかし、恋人がいた頃にいそいそと2人分の食事をつくっていたことを、ちょっとだけ思い出す。
冷蔵庫から、玉子、豆腐、こんにゃく、さつま揚げらしきもの、大根を取り出す。まず、大根を4~5センチくらいの厚さに切り、面取りをして大きめの鍋へ。水と顆粒の和風だしを入れて、火にかけた。
大根を煮ている間に、他の材料の用意をする。小鍋に玉子を4つ入れ、ゆでたまごに。豆腐にはキッチンペーパーを巻いて、豆腐がつぶれない程度の重しをのせて、水きりをする。こんにゃくは三角形に切る。下ごしらえがいらないのは、さつま揚げらしきものだけだ。
そうこうしているうちに、大根を煮ている鍋からいい匂いがしてきた。鍋のふたを開け、箸を1本、大根の中心に刺してみる。ちょっとカタい感じがするが、まぁ、悪くない。
「これから40分も煮込むんだから、やわらかくなるでしょ」
ひとりのキッチンで誰に言うとなく、そんな言葉がもれる。いや、誰に言うとなく、ではなくて、おそらく私は「大根に向かって」無意識にそれを言っていたのである。
なにしろ今、我が家には私と「おでん」しかいない。正確には、これからおでんになる食材たちなのだが。
私は、大根が入っている鍋に、さつま揚げらしきもの、三角形になったこんにゃく、水きりして食べやすく切った豆腐、殻をむいたゆでたまごを、そーっと入れた。鍋の中のだしを味見して、顆粒の和風だしと醤油を足す。ふたをして、キッチンタイマーを「40分」にセットする。
「よし。40分。待つだけ」
とは言ったものの、私は「待つ」という行為が好きではない。冷蔵庫の中をのぞき込み、プロセスチーズを手に取る。日本酒を冷やのままグラスに注いで、ちびちびと飲みはじめた。
チーズと冷や酒の入ったグラスを片手に、おでんができるまでの40分をどうしようかと思った。我が家にはテレビがない。ネットで映画を見るには短すぎる時間だ。
「本、だね」
ベッドサイドに「積ん読」してある文庫本から、短編集を1冊、取り出した。こういうときに読むのは、食いしん坊な作者が書いたエッセイがいい。向田邦子さんの作品集である。
向田さんの小気味いい文章を手繰っていると、しばらくして、キッチンの方からいい匂いがしてきた。
むろん、おでんを煮込む匂いである。
おでんは、やわらかく煮込まれた大根、茶色くなった玉子、ふっくらになったさつま揚げを、ハフハフいいながら食べるのがいい。それはこれまで、おでん屋のカウンター席で何度も経験してきた。
しかし考えてみれば、私はその日まで「出来上がったおでんがいい」ことしか知らなかった。
おでんは、出来上がったものはもちろんおいしいけれど、煮込んでいる途中もいい。だしの香りが家中に広がって、幸せになれるあの感じが、とてもいいのだ。
「おお、なんか、いいねぇ」
私は、片手に文庫本を持ったまま、キッチンへ向かった。鍋の中では、もう「おでん」になったであろう食材たちがコトコト煮こまれている。ふたからは、白くてあたたかな湯気が立っている。
「ピピピ、ピピピ……」
ちょうどそのとき、タイマーが40分の終わりを告げた。
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