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牛肉と躊躇

その日、私はスーパーの店内をウロウロしていた。

といっても、別にあやしいことをしていたわけではない。迷っていたのである。

買おうか、買うまいか。牛肉を。

私がウロウロしていたのは、スーパーの店内でも精肉売り場である。普段は買いものに来ても、牛肉のコーナーは見ない。通り過ぎている。牛肉は高いことがわかっているからである。

しかし、その日の前日、うっかり何かのレシピサイトで「すき焼き」の写真を見てしまった。

久しぶりに食べたい。すき焼きを。

その思いは、一晩寝てもさめなかった。そこで、意を決してスーパーの精肉売り場へやってきたのだった。意を決してやってきたはずなのに、私は牛肉のコーナーで立ち止まってしまった。

その日、そのスーパーにおける輸入牛肉の値段は100g199円。175g入りのパックが348円。豚肉の約2倍、鶏むね肉の約2.5倍である。和牛になるとさらに値段はお高く、鶏むね肉の10倍くらいする。

この牛肉の値段を確かめた私は、スーパーの精肉売り場で、牛肉のコーナー、豚肉のコーナー、鶏肉のコーナーを行ったり来たり。何往復もしながら考えた。

豚肉ですき焼きをつくっても、鶏肉ですき焼きをつくってもいいじゃないか。そんな考えが頭をよぎる。

しかし、やっぱり「すき焼き」といえば牛肉だ。思い切って牛肉を買うことにする。

100g199円の輸入牛肉の175g入りパック、348円。

そういえば、チェーン店の牛丼は1杯350円くらいだから、この牛肉1パック分の値段だ。ごはんも他の具材も、店によってはお味噌汁までついて、しかもできあがって食べるだけの状態で出てくるのに、牛丼は350円。

そういえば、牛丼チェーン店にはすき焼きの定食みたいなものがあったなぁ。あれは、いくらだったかしら。久しく牛丼チェーンには行っていないし、行ったとしても牛丼しか食べていないから、たしかな値段はわからない。たぶん、600円台だったと思う。

牛丼が350円で、すき焼き定食が600円台……。

これから私が自分でつくろうとしているすき焼きは、材料費が一体いくらかかるのだろう。牛肉だけでも350円、それにお豆腐、しらたき、長ねぎ、卵も欠かせない。材料費だけで600円は優に超える。それを私は、ひとりで食べるのである。

牛丼屋さんに食べに行った方が安いかも……。

「自炊の方が安い」と無意識に思っていた自分はなんておバカだったんだろう。チェーン店に食べに行った方が安いし、手間いらずではないか。一瞬、そんなことも考える。

だがしかし、私はその考えを打ち消した。打ち消して、カゴの中の牛肉のパックをもう一度見た。

100g199円の輸入牛肉の175g入りパック、348円。

これを買って帰ろう。買って帰って、昨日レシピサイトで見たあのすき焼きをつくろう。すき焼きをつくって、家で食べよう。

ようやく決心して、精肉売り場をはなれ、牛肉以外の食材をカゴに入れて回った。すき焼きに使うものの他にもあれこれ買ったから、結局、会計は3,000円を超えていた。

自炊って、安いのかな……。

なんだか釈然としない思いを抱えたまま、家路についた。

しかし、その思いは、自分でつくったすき焼きを食べたら吹っ飛んだ。いや食べる前から、つくっているときから、「やっぱり家でつくってよかった」と思った。

久しぶりのすき焼き、久しぶりの牛肉の匂い。もうすぐできあがるという、そのワクワク感。

ひとり暮らしのわが家にもたらされた、牛肉というしあわせ。このしあわせを、348円(だけじゃないけど)で手に入れられるなんて。私は何を迷っていたんだろう。

この日、私は精肉売り場で迷いに迷った揚げ句、牛肉にした。そして「牛肉にしてよかった!」と思った。

迷うことは、疲れる。疲れるし、時間もかかる。迷いすぎると「やっぱりあっちにしておけば……」と後悔することもある。後悔するのは、結局、自分がいちばん最初に「これ!」と思ったものにしなかったからだ。

これからは、牛肉を食べたいと思ったら、躊躇せずに牛肉を買おう。豚肉も、鶏肉もおいしいけれど、やっぱり牛肉じゃなければならない料理だってあるのだ。

ただし、輸入牛肉に限る。わが家では、よほどの臨時収入がないと和牛は買えない。

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