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料理のパワー

その日の私は、思いのほか疲れていた。

家にたどり着いたとき、ああ、やっぱりお惣菜でも買ってくるんだった……と思った。

その日は平日だったけれど、午前中のうちに依頼主へ原稿を送った私は、午後から街へ繰り出した。雲一つない、気持ちいい秋晴れだったからだ。

散歩がてら、と思って出かけた割には、久しぶりに商店街をブラブラするのが楽しくて、途中、酒屋で買い物をした以外は、夕方までほとんど歩き通しだった。

その商店街を歩きながら、お惣菜屋さんを見かけて、夕食用になにか買って帰ろうかな、と思わなくもなかった。しかし、それをやらなかったのは、ウチの冷蔵庫の中を思い出したからだった。

ウチの冷蔵庫の中には、賞味期限間近の鶏の手羽元や、数日前に近所のスーパーで買ったまま使っていないキャベツやニンジン、実家から送られてきた野菜たちが、いろいろ入っている。出かける間際の私は「きょうはこれを使ってシチューでもつくろう」と思っていた。

しかもその日、唯一買い物した酒屋では、私にしてはちょっとぜいたくな白ワインを買っていた。それも、シチューに合わせようと思って買ったのである。

私は、お惣菜屋さんに並ぶできたてのから揚げやコロッケの誘惑にも負けず、「シチューをつくるぞ」という初志貫徹するべく、帰路についたのだった。

ところが、である。

楽しかったとはいえ、何時間もずっと歩き続けたことには変わりがない。自分では疲れていないつもりだったが、商店街のある駅からわが家の最寄り駅まで、電車の中でぐっすり眠り込んでしまい、危うく乗り過ごしそうになった。最寄り駅からわが家まで徒歩10分ほどだが、いつもならなんてことない距離なのに、ものすごく遠く感じた。

そうして、ようやくたどり着いたわが家。

「はぁ~。疲れた……」

ひとり暮らしだから誰もいないのに、私は思わずつぶやいた。リビングの座椅子にぐったりとへたり込むと、そのまましばらく目を閉じた。

「……シチュー、つくらなきゃ」

そんなに疲れているのなら、別につくらなくても誰にも怒られないのに、なぜかその日は、つくらなければならないような気がした。おそらく、その日を逃すと、もうシチューをつくらない自分を想像できたのだと思う。

部屋着に着替えてから、水を1杯飲み、気分転換する。

「よし、っと」

冷蔵庫を開けて、パックに入った手羽元、チューブ入りのショウガ、ビニール袋に入ったキャベツ、ニンジン、新聞紙に包まれたジャガイモなど、シチューの材料を取り出した。

ジャガイモとニンジンをたわしでよく水洗いして、タマネギは皮をむいて、食べやすい大きさに切る。

ゴロゴロ、ゴロゴロ。ザクザク、ザクザク。

鍋に油とおろしショウガを入れて熱し、香りが立ったところで鶏の手羽元に焼き色がつくくらい焼く。

ジュージュー、ジュージュー。

その鍋の中に切ったジャガイモとニンジン、タマネギを入れ、酒をふって水を満たし、フタをする。ジャガイモなどが煮えるまで、中火から弱火にしてしばらく放っておく。

その間に、キャベツを切る。冷蔵庫に入っていたのは、ほぼ半分。それをさらに半分に切った4分の1を、シチュー用に大きめに切る。

ザクザク、ザクザク。

まだ鍋の中は煮立っていないけれど、切ったキャベツを追加で入れる。鍋の中は、フタがようやく閉まるくらい満杯になった。

「さて、と……」

シチューに入れずに残ったキャベツ4分の1を、どうしようかと考える。ラップに包んで再度、冷蔵庫に入れることもできるが、そうするとさらに何日も活用されないままになるだろう。いっそのこと、切って冷凍でもするか。

「あ、そういえば……」

冷蔵庫の中に、セロリがあるのを思い出した。2本取り出して、水洗いし、ななめ薄切りにする。キャベツは、シチュー用よりも小さく切る。切ったセロリとキャベツを一緒にビニール袋に入れて、塩をふり、顆粒の昆布だしを加えて、ビニール袋の上から野菜をもみ込む。

ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ。

野菜が少ししんなりしたら、ビニール袋から空気を抜いて、輪ゴムで口をきつく縛り、水分がもれないようにする。タッパーにギュッと入れて、冷蔵庫へ。翌日の朝ごはんに食べる「キャベツとセロリの漬物」である。

そうこうしているうちに、鍋がグツグツ、グツグツ。フタを開けて、ジャガイモに箸を刺してみると、ちょうどいいやわらかさだ。お玉で煮汁を味見する。特別な調味料を入れたわけでもないのに、鶏の手羽元や野菜たちからいいうまみが出ている。

「これでよし、と」

市販のシチュールーを割り入れて、煮汁で溶かす。焦がさないようにさらに弱火にする。

コトコト。コトコト。

次に、シチュー鍋の隣のコンロで、ゆで卵をつくる。その日に食べるのは1個だけど、きっと翌日も食べるから、3個くらいゆでる。

しばらくすると、シチュー鍋からいい匂いがしてきた。これぞまさに「シチューの匂い」である。さっきまでの「スープの匂い」とは全然違う。鍋のフタを開ける。もわっと広がった湯気を、思い切り吸う。

「う~ん。我ながら、おいしそうだぞ」

ちょうどゆで上がった卵の殻をむき、2つに切る。シチューを皿に盛り付けて、2つに切ったゆで卵を添える。

「よし、できた!」

商店街で買ってきた白ワインが、ちょうど冷蔵庫で冷えている。スクリューキャップを回して開け、ワイングラスに注ぐ。

トクトク、トクトク。

「いただきま~す」

自分でつくった手羽元のシチューを前に、手を合わせる。ふわっと湯気の向こうに、白ワインの入ったグラス。ワインをゴクリ。シチューをパクリ。

「おいしいじゃないか~!」

家にたどり着いたときの疲れはどこへやら。料理は食べているときだけでなく、つくっている間にも、パワーを与えてくれるようである。

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