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バンコク黙示録2010(2)

◎2010年5月2日あたりのバンコク

「デジカメ片手に」と書いたが、5月2日時点でのサラデーン駅周辺のような、特殊な状況下にある場所でのカメラの取り扱いには最大限気を使ったつもりだ。
 まず、カメラをバッグから取り出す時は、警備中の兵士や警官の目に入りやすいところでゆっくりと取り出した。そして手に持ったカメラはなるべく「カメラ持ってます」と周りに見えるようにした。また、写真を撮る時も兵士や警官の視線の死角に入らないようにした。

 何故このように振舞ったかというと、急にしゃがんでがさごそバッグの中を漁っているとテロリストが爆弾かなにかを取り出していると勘違いされ、下手すると撃たれてしまうから。良くて壁を向いて立たされ、ボディーチェック。兵士や警官の視線の死角に入らない、というのは赤シャツ隊の自警団から保護してくれるのは彼らだから。

 実際には、道路のあちらこちらに鉄条網が置かれているとはいえ、現場の雰囲気は特に緊迫したものでもなく、兵士や警官に「写真撮ってもいいですか?」と訊けば彼らは快く私の要望に応えてくれたし、赤シャツ隊からも特に警戒されることもなかった。
 ただし、私の身に何事もなく済んだというのは結果論で、私がルンピニー公園の周りに行ったと話したら「危ないから行かないほうがいい」と日本人にもタイ人にも注意された。逆に、私が誰かから「ラーチャプラソン交差点やルンピニー公園に行きたい」と言われたら、やはり「止めなさい」と注意したと思う。

「じゃあどうしてあなたはそんな危ないところに行ったの」と聞かれたら、「今時代が動いているので現場を見たかったから」としか答えようが無い。

 サラデーン駅高架下、つまりシーロム通りには軍、地下鉄シーロム駅から向こう、つまりルンピニー公園付近には警官隊が配備されていた。そしてその中間地点、つまりラーマ4世通りを越えるか越えないかのあたりには、「アピシットの人殺し」と書かれたステッカーや、「暴君、民衆を殺す」とのスローガンが添えられた、戦闘の末に射殺されたと思われる赤シャツ側犠牲者の画像入りのポスターがべたべたと貼られていた。


「誰が赤シャツ隊を追い出すことが出来ようか。赤シャツは流血を恐れず」という要旨の詩が書かれた貼り紙もあったが、これらの光景及びステッカーやポスターの存在は、タイ字紙でもCNNでもヘラルド・トリビューンでも封印されてしまったかのように黙殺されていた。

「ここで殺されても新聞に載らないな」
実際はどうかは別として、私はなんの感慨もなくそう思った。そして気がつけば、周囲にタイのプレスしかいない。道路の向こうに古タイヤと竹やりのバリケードが見え、「私たちは民衆のそばにいたい」という赤シャツ側のスローガンが書かれた横断幕があった。そして私は、自分は彼らの言う「民衆」のうちに入ってないんだろうな、と思いつつ、数年前に買った安物のデジカメのシャッターを押した。

「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない」というマリリン・マンソンの言葉が脳裏をよぎる。正確にはこの台詞は、9・11テロが起きたときにブッシュ・Jrが旧約聖書から引用し、演説に使ったものだが、わたしはマリリン・マンソンからこの言葉を知った。

「そんな、『死の陰』だなんて大げさな」と私は自分をいさめたが、行った者でないと分からない、ぞっとするような冷たさが「中間地帯」に存在したのも事実だ。

◎2010年5月3日あたりのバンコク

 午後、再びサラデーンに向かう。BTSの車両から窓の外を眺めると、相変わらずサイアムパラゴンは閉まっていて、ルンピニー公園にはお祭りとか運動会の時に「運営本部」みたいな感じで設営される形状のテントが三つばかり見える。人はどれくらいいるのか分からないが、千人もいない。
ところで前日ホテルに帰ってから、アピシット首相を非難する貼り紙はあったが、アヌポン陸軍総司令官をこきおろすようなものは全く無かったことを疑問に思い、ホテルの人達に訊いてみると、

「それはタクシンさんとアヌポンさんは友達だからなの」
と副支配人の色白独身アラフォーのセーナー女史がおっとりした口調で教えてくれた。

 以前にもタクシーの運ちゃんが「タクシンとアヌポンは同級生なんだ」と言っていたことを書いたが、彼ら二人は士官学校の同期だった。卒業後それぞれ陸軍と警察に進路を進めたが交流はあるという話。蛇足だが、アヌポン氏は見事に「アピシット若社長を支える専務」の顔をしていた。

 陸軍総司令官といえばタイ軍部最高実力者。時によっては首相より強い権限を発揮するのだが、上記の事情によりアヌポン陸軍総司令官は、デモ隊強制排除は行わない、判断を首相に委ねると明言していた。
実際、「中間地帯」にある恐ろしいポスターやステッカーを無視すれば、サラデーン駅からルンピニー公園周辺の空気は「ゆるい」としか言いようのないものだった。アピシット首相が赤シャツ側の要求の一つである議会解散を検討し始めた、という報道があったこともある。

 ちなみにタクシン元首相が10日ばかりTwitterの更新を止めていたせいで、どういうわけだか「ガンで死亡」という噂が流れていたのだが、タクシン元首相が自らの最新画像をフェースブックに投稿し、「私はまだ死んでないんだけど……」とアピールするということがあった。5月3日付けのタイ字新聞にその画像が流用されていたが、これも「ゆるい」と言わざるを得ない。
 ちなみに私は、タイで噂になった話が現実であったという例を一つも知らない。

 歩道が有刺鉄線で封鎖されていることは前にも書いたが、何故かその向こうから普通に人がやってくる。そこ封鎖されてるけど?と思って見ていたら、彼らは有刺鉄線のところまで来ると、ひょいと車道に下りて有刺鉄線を避け、また歩道に上がってすたすたと歩いていった。警護に当たる兵士も警官も誰も咎めず。ザルである。

 私もタイ人達を見習い、有刺鉄線を避けながらルンピニー公園周辺まで行ってみる。スピーカーで女の子が喋っている声が聞こえる。何を喋っているのかなと耳をすませれば、少なくとも演説ではない。
「誰々さん、そして皆さんありがとうございます、次はコンケン赤シャツ隊のなんとかさんです」
 そして流れる音楽に合わせて男性の歌声が。別にプロテストソングでもなんでもない、普通の歌謡曲だ。
「こいつら日が昇ってるうちからカラオケ大会やってやがる……」

 当然酒も振舞われる。私はバリケードの隙間から赤ら顔のおっちゃんに声をかけられた。イサーン語なのかそれ以前の問題なのか分からないが、言ってることが一言も分からない。最初は文句をつけられているのかと身構えたが表情は友好的で、仕草から「若いの、一緒にのまねーか」と誘われているのは理解出来た。そういえば高田馬場でこういう人を見たことがある。
 いくらゆるいとはいえ、バリケードの中に入るのまでは気が引けたので無視したが、両親が医者でオックスフォード大学主席卒業の「スーパーエリート」アピシット氏と、さっきみたいな下町のおっちゃんとでは噛み合うところがあるはずもないと実感した。

 サラデーン駅まで戻ってみれば、若い兵士が軍用トラックの上で音楽に合わせてこそこそ踊っている。ゆるいのは分かった。私もカフェで一休みすることにしよう。 
 だが、この平和はひとときのものであり、ちょっとでもバランスが崩れたら瞬きをする間にばたばたと、そしてあっけなくおびただしい人が死んでいくという確信もあった。その確信が的外れであればよかったのだが、残念ながらそうではなかった。

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ゴム弾銃を持つ若い兵士。今も生きているのか不明。

◎2010年5月4~5日のメクロンとバンコク

 今年(2010年)の2月に私の瞑想のお師匠さんであるF和尚が成仏されたのだが、そのF和尚が所属されていた、バンコク郊外のメクロンという所にあるお寺がそれにともなう式典を行うということで私も参加する。他の参加者は私と同じように日本から来た人もいれば、タイ在住邦人の方もいた。

 変な話だが、久々に日本人に囲まれてなんだかドキドキした。というのも、私の泊まっていたホテルには私以外に日本人客がいなかったというのもあり、それまでほとんどタイ人としか話をしていなかったからだ。
 その前日、5月3日の夜にエンポリアムデパート近くの中華料理屋で催されたパーティーの席上、知り合いの女の子にデジカメを渡し、これまで撮影した写真を見せると、彼女は怪訝そうな面持ちで私に訊ねた。
「もっと心温まるような写真は無いの?」

 彼女がそう思ったのも無理は無い。確かに私がタイに来てから撮った写真は大きく分けて、軍人・警官・赤シャツのバリケードの三種類の写真がほとんどだったからだ。更に昔足を運んだ矯正博物館(刑務所跡地を利用し、昔の死刑に使った設備などが展示されているところ)の写真なども残っていたということもあり、ちょっと限界を感じたのだろう、

「これから食事だからちょっと……」
 彼女はデジカメを私に返した。私的には記録しておくべきもの・目を逸らしてはいけないものがあると思ってシャッターを押したものばかりなのだが、オンナノコにモテルという、大事なことを犠牲にしていたようだ。

 ともかく、4日早朝に待ち合わせ場所に行き、バスに乗ってメクロンに向かう。
 お寺で簡単な打ち合わせをした後、海岸沿いのオープンレストランに行き、皆で昼食。エビ・カニがおいしい。空気がバンコクよりきれい。それにここには兵士も赤シャツもいない。その代わり、古き良きタイの雰囲気がそこにはあった。
 古き良き、といえば、メクロンと言えば線路上マーケットでも有名なのだが、メクロン駅のホームで「古代アイスコーヒー」と銘打たれたものが売られていたので注文してみれば、私の知る限り90年代まではバンコクでも売られていた、氷のザクザク入った甘ったるいアイスコーヒーが出てきた。

 タイの人は今でも甘いものが好きだが、ダイエットブームというものもあり、今では日本茶が健康にいいということでコンビニでよく売られている。ただし、緑茶も薄甘い。
「古代アイスコーヒー」は私も好きで、若い頃よく飲んだ。だが当時は単に「アイスコーヒー」と呼ばれていたものにいつから「古代」などと大げさな前置きがついたのか。
 おそらくだが、タクシン政権が誕生してからだろう。確かにタクシン政権はバンコクも地方もあっという間に変えた。その経済政策はタクシノミクスと呼ばれたが、いくつかの問題もあった。王様の提唱する「足るを知る経済」と真っ向から対立したことはその最大のものだ。

 肝心の式典は5日に行われた。お坊さんに食事供養をした後、参加者も昼食となる。タイの習慣で、食べきれないほどの料理が出される。
 タイは元々食うに困らない国だ。普通、そういう国では内戦は起こらない。だがタクシン元首相は地方の農民達に現金を得ることを教えた。現政権でもそれは引き継がれたはずだが、その点アピシット政権は失敗した。わざと失敗した可能性は高いが、日本でも月収が20万あったところが10万円になったら、それは暴動の一つや二つ起こるだろう。

 だが、タクシン復権を願う赤シャツ隊のデモは、地方の人々の生活を更に圧迫していた。「足るを知る経済」は「今あるもので満足し、心静かに暮らそう」というものだが、無いもので満足できる人がいるはずもなく、現政権支持派の多いバンコクですら顧みられることは無かった。

 メクロンからバンコクまでカメラマンのO君と一緒に、船やタクシーを乗り継いで帰る。時間にして2時間くらいだったろうか。高速道路に立ち並ぶビル群。地方からバンコクに入ると世界が違う。とまどいすら感じる。まるで別の国だ。
 地方出身者にとっては別の国というよりも他人の国なのだろう。赤シャツ隊にとっては敵地。

 パブリック・エネミーという社会派ヒップホップユニットの曲の中に、「黒人を歪曲して描くハリウッドなど燃えてしまえ!」という、なかなか過激なものがあった。
 日本でもトニー・ジャーは知られた存在だが、「マッハ!!」の冒頭でも「地方問題」に触れる場面があった。バンコクの良識的なインテリも、以前から「地方とバンコクの格差」については憂慮していた。だが、彼らの腐心も、「燃えてしまえ」で無に帰す可能性は常にあった。そしてトニー・ジャーはバンコク女子人気ゼロ。肌の浅黒い田舎者の肉体労働者というのがその定評。アクション俳優は肉体労働者。そして働く者より働かせる資本家が偉い、というのがタイ人の価値観なのだ。

 ホテルに帰れば、客が私一人になっていた。欧米人達は暴動やその鎮圧などを恐れてバンコクを去り、都心部では観光客もまばらになっていた。

◎2010年5月6日あたりのバンコク

 5月5日はプミポン国王戴冠記念日。公休日なのは知っていたが、当時は「とにかく休みの日」くらいにしか思っていなかった。
それに合わせてか、「9月15日から30日の間に議会解散」という提案が政府から出され、赤シャツ側も、「11月14日総選挙(という話は前から出ていた)というのも具体性に欠ける。解散日をもっと明確にしてもらいたい」
と不満を述べつつも対話に応じる姿勢を見せ始めた。

 サラデーンのタニヤプラザに行ってみると、それまでは「政情不安が治まるまで休業」という内容の貼り紙が店頭に貼ってあった大戸屋が、「8日午前11時から営業を再開します」と貼り紙を変えていた。4月19日から休業していたところを再開したというのだから、議会解散時期決定はよほどよい知らせだったのだろう。
 BTSも「6時から24時」と平常運行に戻った。それまでは終電が19時で、サラデーン駅にロケットランチャーで手榴弾が打ち込まれて多数の死傷者が出たり、私がタイに来てからも前述のように謎の爆発があったりで運行停止したこともしばしばだったのが元に戻ったのだから、バンコク市民にとっても一安心というところか。

 私も、この調子でお互いうまくやってくれればなんとかなるだろうと楽観的になり、ガイドブックにも載っている有馬温泉(客はほぼ日本人)という古式マッサージ店でもんで貰ったり、ホテルに帰ってからナナプラザに出かけたりと観光にいそしんだ。
    ナナプラザを知らない方向けに説明。建物に入っている店舗ほぼ全てがゴーゴーバーという場所。この近辺のホテルに泊まると、たまに白人男性とタイ女性の痴話喧嘩でたたき起こされる。そういうのが嫌で、「ここなら静かだろう」と選んだホテルがアピシット首相の近所で厳戒態勢だったといういきさつもある。

 ここに来る客は欧米の白人か日本人。アラブ人やアフリカ人は来ても女の子が寄って来ない。タイ人は彼らのことを「臭い」とか「性格が悪い」とか言って露骨に嫌う。日本人は「大人しくて小柄なので恐くない」らしいが、別に嬉しくはない。
 適当に店内に入ると、ウエイトレスの女の子達が「コーラおごれ」とやってくる。ちなみにステージで適当なポールダンスをやっている女の子もウエイトレスも番号札をつけているが、これは「連れ出してもいい」という印。
では、ダンサーとウエイトレスの違いは何かというと容姿。色が白くて細身のコはダンサーという建前で大金を稼ぎ、黒くて小太りなコは小銭稼ぎに甘んじているというのが現実。
 だから田舎から仕方なくやってきたようないまいちな容姿のウエイトレス達は、脇の甘そうな客を見つけてたかりに来る。コーラ95バーツをおごられると20バーツほど店からキックバックがあるらしい。
 それを知っている私は、タイ人がギャンブルが好きなことを逆手に取り、メモ帳に升目を書いて、
「○×ゲームで勝ったらおごるが、負けたら20バーツ払いなさい」とやった。

 タイでは○×ゲームは特に知られていないが、勝敗がつくのが早いので彼女達にも面白かったらしい。だが所詮は素人、ヒドイ話だが、だいぶ20バーツ札を稼がせてもらった。

 しかし入れ替わり立ち代り来るし、こっちも疲れてきたので負け始めてきた。そこで私はタイ人が苦手とする数学の問題を出し、「3分以内に解けたらコーラ。負けたら20バーツ」と切り替えた。
 私は彼女達の数学の基礎知識の無さに驚いた。「5分の1足す6分の1」を「11分の2」にしてしまい、さあ出来ました、という顔をしている。正解を説明しながら書き出しても理解してくれない。とにかく分数の意味が分からないようなのだ。掛け算はそこそこ出来たので、それじゃ三角形の面積を出して、とやると全く分からない様子。「高さかける底辺の長さかける2分の1」を説明しても、初めて知った、みたいなことを言う。

 いろいろと問題を出してみたが、「3分の1割る3分の1イコール1」が分からない。「3分の1割る3分の1」は「3分の1かける3と同意義」と説明したら、それは何故なの?みたいな顔をしている。タクシン政権で唯一成功しなかったのが教育」と言われているが、教育に熱心だった印象もない。北部や東北部の人々はタクシン氏の票田でしかなかった。

 だがタイは数学オリンピックで毎回入賞者を出している。この「出来る出来ないの差」が埋まらない限り、国家の分裂も埋まらないだろう。少なくともBRICS(注:当時ブラジル・ロシア・中国・インドの新興国をこう呼んだ)諸国に勝てない。
 気がつくと、「コーラ」とか「20バーツ」とか容姿二軍三軍の女子達が言わなくなってきた。真剣に勉強し始め、「次の問題出して出して」状態になっている。人に、しかも外国人に数学を教えるのはかなり体力がいる。
そして、最後まで食いついてきたのが「一番黒くてデブなコ」。

 そのうち「実は大学生でモデルやってるの」というダンサーが来た。見事にギャルメイクだが、言われてみればそれなりに教育のありそうな顔をしているので、ウエイトレス達が答えられなかった問題を出してみると、すらすらと解いた。
 タイは人生の勝ち負けが厳しい国だ。分数の意味を教わった日本には感謝しなければいけないと思う。

◎2010年5月7~8日あたりのバンコク

「ゆうべ何か起こった?」
 朝起きてからこの質問をホテルのスタッフにするのが、バンコクに来て以来の私の習慣になっていた。
 何故かといえば、赤シャツ隊が何かするというと、必ず日付けが変わるか変わらないかの深夜だったからだ。

 そして5月7日の朝の彼らの答えは、「特に何も」。
私は安心すると同時に、テンションが下がるからだろうか、疲れも感じた。
 バンコクに来て10日目になる。そういえば中華街にもプラトゥーナムにも行ってない。だが、「ドンムアン空港付近で陸軍部隊と赤シャツ自警団が衝突。死者数名」などというニュースを見ると、普通に観光するのがなんだか申し訳ないような気になって、「近所で大人しくしていよう」という気分になる。

 実際、「赤シャツ隊が中華街に進出画策」という話もあったし、プラトゥーナムと言えばラーチャプラソン交差点の近所だ。いくら昼間はなんてことない、と分かっていても心弾む、ということもない。

「あと10日、何して過ごそう……」
 正直、大して観光も出来ないバンコクに私は飽きていた。政府と赤シャツ隊の協調ムードにも陰りは無いようだが、かといって赤シャツ隊が占拠地から撤退する兆しも無いという中途半端な状態だったからだろう。アピシット首相は、「撤退が無いなら議会解散も無しだ」と言っていたが、まるで「空砲」のような政府寄りの記事を載せるタイの新聞に書いてあったことなので、あまり本気には捉えていなかった。

 そんな感じでだらだら過ごした7日だったが、5月8日の朝、私がいつものように「ゆうべ何か起こった?」と訊くと、
「サラデーンで警官が南部イスラムゲリラに狙撃されたわ」とセーナー女史が答えた。
「南部イスラムゲリラ?赤シャツの自警団じゃなくて?」
 私はセート・デーンことカッティヤ・サワディポン少将率いる赤シャツ隊のタカ派がまた何かやらかしたのかと思ったのだが、セーナー女史はそのお嬢様育ちを髣髴とさせるおっとりとした口ぶりで、

「いいえ、南部イスラムゲリラ。おそらく新聞にはそう書いていないと思うけど……」
と私の決め付けをやんわり否定した。その時オーイちゃんもいたが、やはり彼女も「南部イスラムゲリラの犯行よ」と断言。
    当時、彼らが何をソースに事件の真相を断定しているのか私は不思議だった。4月27日未明に起きたとされる爆発事件については、私も振動を感じているので疑問の余地は無かったが……

 私はサラデーンへ向かった。大したことが分かるということも無いだろうが、そういえばサラデーンの大戸屋が今日の昼から営業を再開するとか言っていたし、まあ、昼飯食ったらシーロムコンプレックスのカフェで一服すればいいや、くらいの軽い気持ちでいた。

    新聞を途中で買おうとしたが、スポーツ新聞以外全部売り切れだった。とにかく普通の新聞は無かった。仕方がないので手ぶらで行く。
    サラデーン駅からタニヤ側に降りてから辺りを見回す。特に警戒レベルが上がった様子もない。後に事件はサラデーン交差点で起きており、駅の高架下には特に被害が無かったことが判明。

 タニヤプラザに入ろうとすると、警備員のおじさんが立ち止まるように私に言い、金属探知機らしきものを私の体に形だけといった感じでひらひらとかざした。さあ行ってよし、というところで私は警備員のおじさんに訊ねた。
「他の人達が、ゆうべ南部イスラムゲリラが警官を襲ったって言ってますが本当ですか」
「ああ本当だよ」
 実は人の良い、警備員にはあんまりむいてないんじゃないかと思われるおじさんは答えた。
「しかし他にも警官がいながら、何故犯人は捕まらなかったんですか?」
「追いつけなかったんだよ。犯人はバイクに乗っていたからね。ところであなたはここには何をしに?」
「大戸屋に昼飯を食いに……」
「そうか、それはいい、ご飯を食べて女と遊んでさ、ね、ね?」
 ともかく「外国人はそんなことに興味持たなくていいから」というニュアンスのことを言われたのははっきりと覚えている。 

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