あれ?わしって草刈りが好きかもしれないの話

昨日は友人たちがひょいっと来てくれて、おしゃべりができ、うれしかった。ひょいと来てくれる人が好きだ。

今日は朝は寒いが、すぐに暑くなり、この時期の典型的な気温差のあるいちにちになりそうだ。
明日の夜から雨が降るらしいので、雨のときのヤギの餌として草を刈る。

うちにヤギが来てからは、草がエサ、つまりそこらじゅうにお金が落ちているようなもんだ。
これ丸儲けじゃねぇかとほくそえむのだけど、労力は当然必要で、しかも並みの労力ではないのだろう。刈って集めるのは重労働だ。

でも、自分の今の行動が、次の誰かの糧になるという行為はとても気持ちがいいものだし、しめしめやったぞと思うし、それこそが生きている、生きるための生きがいなんて大げさなことも思う。

この気持ち、何かに似ているよなあと思ったら、薪ストーブを始めたときの気持ちだった。
人が見向きもしない、なんなら捨ててしまうものが、大切なエネルギーとしてただでこの手に入る。集落が、林道がきれいになることがうちの暖房につながる。
多少の労力は必要だけど、お金をもらっちゃうときもある。これ、笑いが止まらんじゃろ。自然のチャリンチャリンシステムでもある。
そうなると多少の労力は、つらい時間から楽しい時間に変わる。コレホント。ひとからたいへんに思われることでも、好きでやっていることは当人にとって全然つらくはないのだ。

ひとつの行動を投じたとき、その行動が何倍にもなり帰ってくることは自然を相手にしている人たちには、より、

わかってもらえることと思う。一石が何鳥にもなり、その行為を肯定してくれる。自然とともに生きるとはそういうことなんだと思う。

つまり、草刈りという、だいたいの人が忌み嫌う行為が、わたしにとってはかけがえのない時間となるのだ。それをするといいことばかりがこの身にふってきて、みんなが喜んでくれる。
その喜びはまた次の草刈りのエネルギーとなり、いつまでも続けていられる。

ひとによって、草刈りに対する思いは違うと思うけど、わたしは今日の草刈りの時にそんなことを思った。そんな瞑想のようなことができるのも草刈り時間のいいところのひとつなんだよ。

だからみんなも草刈り頑張れ、薪ストーブをやりなよ、という気持ちが以前は強かったのだけど、みんながいやがるからこそ、そういう雰囲気があるからこそ、私の気持ちよさも増すのかもしれないと最近は思って、にやにやしながら黙って草を刈ることにした。いやー、すみません。楽しくて。

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