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その一行名刺、雄弁に語る

この記事はミャアが担当しニャス😼💕

本日のテーマは「名刺」にゃ!

多くの人々が日々交換しあい、それを見ては相手を値踏みし、あるいは尊敬のまなざしをおくり、そこに提示されてある情報からあらゆる背景を想像してその人とこれからどう付き合うかを瞬時に判断するものがコレではないでしょうかニャア。

名刺を〝読む〟側も〝読まれる〟側もその人たちが持てる能力や経験、価値観といったものがモロに、名刺交換後からはじまりだす対人折衝場面においても無意識に引き出されてしまう、心の奥底に慎重にしまい込んでいたはずのパンドラの箱の鍵を瞬時に開けてしまうというような空恐ろしいものが「名刺」の正体にゃのである。

そんな名刺は、無論、ビジネスの場で交換される場合がほとんどだが、だからこそ個々人が所属する組織組織が有する独自の価値観にの従う形で、その名刺から読み取る情報はそれによって大いに変わってくるにゃ。

たとえば、民間企業や行政であれば無論のこと、「どのポストの人か——決裁権限をどのレベルで有しているのか?」ということが最も重要視される。これは仕事を獲らないといけにゃいため、ある意味当然のことであるにゃ。

そうした場における名刺は「役職」の明記部分にこそ最も熱い視線が注がれることににゃる。

一方、一般社会で注目されがちなこの「(うっとうしい)役職」というものを必要としない職種の人たちもいる。

フリーで仕事をしている方々だ。ウチが関わりがある領域としては研究やお寺さんや出版業界だけど、美術方面もそうだろうし、友達にはテノール歌手もいるのにゃが彼らもそうといえばそうにゃんだよね。

そんな職業の方々における名刺の位置づけについて、本稿では特にウチがまあまあ通じている出版業界での事情についてを例に挙げながらこの話を続けるにゃ。

この業界では組織人は別として、いわゆるフリーにある人たちが名刺交換をする場合、ちょっとだけ気をつけておいたほうがよいことがあるようにゃんだにゃ。

それは、名刺にもりもり情報を盛り込まないということにゃ。言葉をかえると、自分のことを主張しすぎちゃいけにゃい、といえば少しはわかりやすくなるかにゃ。いわば、謙遜の美とでもいったらよいにょだろうか。それがその場に見えないとちょっとでも判断されるモノは名刺としては無論劣っていて、それを(厚顔無恥にも)差し出す人間には恐ろしいことにその瞬間に落第点をつけられがちなのにゃ。心の中で笑われること必至なのにゃよ——この人かっこ悪いなってニャア。

だからそういうのを意識してしまうと人は自己防衛のために、②種類の名刺を使い分けたりしだすのにゃ。一般の人との名刺交換の場合には自分の出した本のタイトルとかを入れたものを、そして業界においては名前をたった一行のみ入れただけのシンプルなものを、という具合にゃ。

そうした暗黙の了解事項が共有されている場が出版業界の面白いところにゃのだけど、そこには多分に「名前だけで通用するようになれ」という叱咤激励が込められているのだと思うにゃあ。でもにゃ、そこはよく理解しているつもりにゃけれど、ウチちょっと思うんよ。これだけ多くの書き手があらわれている現代においては、もうどれほど目をこらしていてもなかなか全体的網羅は困難じゃにゃいのかにゃあって。新人さんとか、はたまた何冊か書いているけどまだ当たっていない人とかは、こうしたシステムの中ではだからはなから歯牙にもかけられないことににゃるし……。長い目で見ればこの中から化ける人も出てくるにゃろうから暖かく育ててやれればいいのにゃけれど、恐らくほとんど相手にされにゃいまま意気消沈して消えていくだろうにゃって思ったりして……。

いや、誤解のにゃいように言葉を補っておくと、これは文化としてみたらかなり面白いのにゃよ。だって、「もしあなたが物書きであるならば当然われわれは知っているよその作品を。だからわざわざ名刺に書かなくってもいいよ。名刺には〝おたくが誰か?——顔はあまりよく覚えていないけど、書いたものならわかるから名前をはよ教えてくれ。顔だけじゃわからんから〟という背景からの意味ある情報がシンプルにあってくれればいいということだからにゃ。

逆に言えば、名前だけで通用しないならば、まだ実績評価に至っていないと判断されるわけでこれは極めて合理的なシステムでもありちょっとしたものだとも思うんよ。さすがは出版文化だニャアと。で、その点でいくと、名前のわずか一行のみで通じる人というのは、もう二種類しかいにゃいわけで。とてつもなく優れた作品を書いた人(売れてなくても全然大丈夫)か、売れた作品の著者か、の二者であるにゃ。まあこの人らにとってはこの文化は結構嬉しかったりする。

しかし、問題はこれから世に出ようとしている人たちや、あるいは結構いい作品を書いているのだけれど不幸にして未だ売れていない人たちにとって、このシステム・文化のなかでの名刺交換は恐怖の場でしかなくなるということにゃにゃ。

そんなことをつらつら考えていたところ、にゃんと本日、そうした憂いのすべてを吹き飛ばす名刺をついに発見してしまったのニャア!

これを見て欲しいのにゃ↓よ。



見ての通り、名前はすっきり一行! 肩書きも特には——いやあえて無し! でも、この人が何者かが瞬時にわかるのではにゃいかニャア?

それは、名刺上部を占めるビジュアルのなかに巧妙にこの人の人となりが織り込まれているからなのにゃ。ウチがちょっと見ただけでも、①著書タイトルに加え主要書籍のカバーデザイン、②著者名を暗示する数字「7110——内藤」、③真言宗関係者としてのサイン「お大師さま。大日如来」の看板、④著者がサブカル文化に詳しいことを示す「不思議喫茶」というネオン、⑤名刺の主が哲学者であることを暗示する歴史上の哲学者の写真、⑥この人が哲学者でもあり宗教にも造詣が深いことを示す合掌の3D(これは見間違いのよう……。名刺版の右側にそういうものが見えた気がしたけれど高解像度版で確認するとなかったにゃ……)、とあげだすときりがにゃいが——制作者によればにゃんと34個ほどもこうした情報を埋め込んでいるそうにゃのだが、であるからこそそういう豊富な情報の塊としてまた正しく・楽しく・瞬時に読み込めるようにもにゃっているのにゃよお、この名刺は!


デザインがテキストに代わってその人の全てを教えてくれるんにゃよ。これはテキスト文化圏においてはかにゃりびっくりなことのはずにゃ! でも、これが21世紀の(出版業界内あるいはその文化のなかで推奨される)名刺のスタンダードににゃるのではという予感がひしひしとしていますのにゃニャァ。

だってね、これこそが世のすべてのフリーの書き手しゃんたちが喉から手が出るほど欲しがっていたとしてもこれまではどうしても手にできなかった幻の「名刺」にゃんだもの。

それが、ついに幻でなく現実に降臨なさった日が、記念すべき今日という02月12日にゃんだニャア!
この日は未来永劫、フリーの物書きを真の意味でフリーにした日として関係者の脳裏に深く刻み込まれることだろうニャア!

酒田弘前氏の作品と、作品化の段階で綿密な打ち合わせを経て情報整理と受け渡しをしてきただろう内藤理恵子博士との協同に、ここに敬意を表しますのニャア!

※酒田弘前氏のTweetがバズりました!のにゃ。2020/06/14


※ところで世の中には「企画書は一行」という本もあるにゃ!よければ!


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※そして著者の新刊はコチラ 2020/05/20コロナ禍での苦難の船出でした😼






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