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みんなも呼びな~八木重吉

最近、すぐとなりに引っ越してきた子どものいる家族が挨拶回りに来て、「子どもがうるさかったらすみません」と言われました。

たしかに、家の中を走り回る足音がよく聞こえるのですが、元気な子どもの生命力を感じて、むしろ楽しい気持ちになります。

私は、電車の中で赤ちゃんが泣いているのを見かける時も、「可愛いなあ~」と思うばかりで、迷惑だと考えたことはありません。

言葉を発することのできない赤ちゃんにとって、神から与えられた唯一のコミュニケーション手段は泣くことであり、そうやって自分の体の不調や必要なものを知らせようとしているのですから。

それでも、赤ちゃんの泣き声は迷惑だと考える人もいるでしょうし、特にその人が身体的・精神的に疲れていたりすると、余計にイライラしやすいのも理解できます。

そんなことを考えていて、思い出した詩があります。

『みんなも呼びな』
(八木重吉)

さて
あかんぼは なぜに
あんあん あんあん
なくんだろうか

ほんとに
うるせいよ
あんあん あんあん
あんあん あんあん

うるさかないよ
うるさかないよ
よんでるんだよ
かみさまをよんでるんだよ
みんなもよびな
あんなにしつこくよびな

重吉は病弱だったので、おそらく病気で横になっていた時に赤ちゃんの泣き声が気に障ったのかもしれません。

最初は「うるせいよ」と思うのですが、「いや、うるさかないよ」と思い直しています。

泣き続ける赤ん坊を見て、私たちも祈る時には、同じように熱心に「しつこく」神に呼びかけるべきだと気づいたのです。

赤ちゃんは、自分で動き回って必要なものを手に入れることができないので、自分を世話してくれる人の助けに頼るしかなく、必要が満たされるまで、泣くことを止めたりしません。

そんな赤ちゃんの姿に、神なしには無力であり、どうしても神の助けを必要とする私たちの姿を重ねせたのでしょう。

聖書でも、あきらめずに祈り続けることについて、イエスがこんなたとえ話をされています。

イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。
「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう。』」
そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。」

(ルカ18:1-7)

このたとえ話に出てくる裁判官にとって、しつこく裁判を求めてくるやもめはうるさく、うっとうしい存在でしたが、神は熱心に祈る私たちをうっとうしいと思ったりされません。

むしろ、「神さまは祈りに答えてくださる」と信じて頼ってくる私たちを、可愛く愛しい存在として見ておられることでしょう。

彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。

(詩篇91:14-15)

たとえ私たちがなんと祈ったらいいのかもわからず、赤ちゃんのようにただ泣くことしかできなかったとしても、神はその涙の意味を汲み取り、私たちの心の内を読み取ってくださいます。

主はわたしの泣く声を聞かれた。主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる。

(詩篇6:8-9)

神は私たちが悩み苦しむ時に、ひとりで背負い込むのではなく、神を呼ぶことを望んでおられます。

時には、赤ちゃんのように、涙を流すほど熱心に呼ぶことを。

神は必ずその祈りを聞いてくださいます。

悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。

(詩篇50:15)

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