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痛みを知っている人の言葉

痛みを知っている人、特に自分と同じような経験をしてきた人の言葉は、共感や感動を呼び、慰めと力の源ともなります。

最近、さまざまなクリスチャンによって書かれた詩が20篇、美しい花の写真とともに収められた『歓びのうた、祈りのこころ』という本を読みました。

そこには、詩人の辛い経験から生まれた作品がいくつも掲載されており、その内の3篇から一部だけ、背景の説明を交えて紹介したいと思います。

これが、何らかの苦難を味わっていて、それに耐え抜く力が必要な方の慰めとなりますように。



サラ・フラワー・アダムス(1805-1848)

(本書では「セアラ」と表記されています。)

『主よ みもとに近づかん』

さすらう者のように
 日が暮れて
闇が私を覆うとき
 石を枕にすることがあっても
なお私は夢に
主のもとにより近く
 もっとあなたのお近くへ

この詩には、人生の試練に会う時、それを通して主により近くなりたいという思いが込められています。

日本では『讃美歌320番』などとして知られており、沈みゆくタイタニック号の船上でバンドメンバーが演奏したことでも有名です。

アダムスは25歳の時にマクベス夫人を演じるなど、シェークスピア俳優として成功を遂げましたが、当時は不治の病であった肺結核を発症したため、演技の道を泣く泣くあきらめることになりました。

そんな姿を見ていた牧師は、文才があった彼女に賛美歌を書くよう依頼し、その結果できた詩の一つが、この『主よ みもとに近づかん』だったのです。

人生の闇の中にいるように感じていた彼女が書いたこの詩によって、数え切れない人が慰めの光を見出すことになりました。

「石を枕」とあるのは、自分がだました兄弟エサウから逃げるために家族を離れたヤコブが、荒野で石を枕にして野宿した際、そんな辛い状況にあっても神が共におられることを示す夢を見た話から来ています。(創世記28:10-16

(讃美歌320番「主よみもとに」)


ウィリアム・クーパー(1731-1800)

『信じるよろこび やすらぎ』

なぐさめが遠のいていくかに思えるとき
 主が ふたたびその魂をかえりみて
雨の後に 光り輝くひとときを与え
 ふたたび ほがらかにされる

クーパーは、イギリスのロマン主義の先駆者的な詩人です。うつ病に悩まされ、自殺未遂を起こしたこともある彼は、人生の暗闇の中で、主の光に支えられて生きました。

彼にとっては、詩作も癒やしであり、うつの症状を緩和する助けとなったようで、『アメイジング・グレイス』で有名なジョン・ニュートンとともに賛美歌集も出版しています。

この詩は、「時として 賛美歌をうたっているとき 一条の光が降ってきて 信じる者を驚かすことがある」という言葉で始まりますが、彼が書いた賛美歌もまた、多くの人に一条の光を降らせるものとなりました。

ちなみに、『信じるよろこび やすらぎ』というタイトルは、次の聖句から取られたようです。

どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。

(ローマ15:13)

ジョン・ミルトン(1608-1674)

『齢なかばにして(ソネット十九番)』

ただ立って待つ者もまた、主に仕えているのだ

イギリスを代表する詩人ミルトンは、40代になってから視力を失い始め、数年の内に両目とも完全に失明しました。

ミルトンは、「この暗く広漠とした世界に、よわいなかばで 光の消え尽きたことを考えるとき」という言葉で始め、目が見えなくなった自分は神に対して何ができるのかと自問しています。

そして、それまでのように懸命かつ積極的に働くことだけが神に仕えることではないと悟ったのです。

「待つ」と言っても、もちろん何もしないということではなく、自分の限界を受け入れるのに必要な忍耐を学ぶことであり、神が彼のために抱いておられる計画が明らかになるのを待つことです。

はたして、神は素晴らしい計画を用意しておられました。

やがて、ミルトンは口述筆記によって他人に頼りながらも、キリスト教文学の代表作の一つと評される壮大な叙事詩『失楽園』を書き上げたのです。

こうして、この詩人たちは、自分の試練や痛みを魂の成長に昇華させたのであり、そこから生み出された詩が私たちの慰めとなってきました。

私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難に耐え抜く力を、あなたがたに与えてくれます。

(使徒パウロ、2コリント1:6 新改訳2017)


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