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散骨屋後日談2章

高木こずえさんの場合

ちょうど二年前のあの日も、今日のようにロスアンジェルスの空は
真っ青に晴れ渡り、真綿をちぎったような羊雲が
気持ちよさそうに浮かんでいた。

太陽が雲を透かしてブーゲンビリアやハイビスカスの花の赤さを際立てている。
波も穏やかで、心まで和ませてくれる。

午前11時ニューポートビーチの埠頭を出航。
艇長65フィート(20ミリ)のリジェンド号は、
二つのダブルベットルームと、大きなサロンを持った
1960年代の建造で、木造のよさを残したキャビンクルーザーだ。

大きなサロンは10人ぐらいが気持ちよく座れ、
そのサロンで寛ぐと、まるでハリウッドの俳優にでもなった感じがし、
60年代に人気が出てきたビートルズや
デイブクラークファイブの曲を聴いているとタイムスリップしそうな気がする。

船は小さな白波を立て、バルボアアイランドを左舷に見、
まるでリゾート地のような海に面した家々の横を滑るように走っていく。
内海に面した家々にはそれぞれが所有する
ヨットやクルーザーがポンツーンに舫ってあり、
平日なのに、その船の上で本を読み、陽を浴びる人の姿が見え隠れする
中流の上といった階層の人たちでもこのように
楽しめるのだからこの国の余裕が分かる。

こずえさんはアメリカが大好きだった。
こずえさんの父親は彼女が20才になる前に亡くなられ、
お母様が一人でこずえさんの大学卒業を夢み、
夢の実現だけを目的に頑張った。

その希望にこたえ、英米文学学部を優秀な成績で卒業し、
就職も某企業から是非にと誘いを受け、男子社員と一緒に
なって働く第一線の部署が約束されていた。

いつも、まだ本とかテレビでしか見ていないアメリカに
いつかお母さんと永住したいと言うのが彼女の口癖で、
入社したら冬の休みには1週間旅をしてくるとガイドブックを買いあさった。

気に入ったところは丸暗記し、まるで10年以上も住んで
いるローカルの人間のように観光地だけでなく、
どこに美味しいパン屋さんがあり、紅茶の種類がそろって
いるお店までが全て頭に入っていた。

小学校の頃から活発で、いつも笑みを絶やさない人気者は
生徒会委員長に選ばれたりもした。でも、勉強に励んだ
せいか、これまで特定のボーイフレンドもいず、
母親に尋ねられても、「会社に入ったら解禁よ」と、笑わせた。

時々めまいを感じ、息切れがするので、入社の前に病院を訪れ、
軽い気持ちで診断を受けたのに不思議と診断結果が出ないまま、
次々に病院をたらい回しにされ発病を知った。    

残念なことに24歳の春に発病した病は不応性貧血(骨髄異形成症候群)
という医療の発達した今でも原因が特定できない
白血病に移行する事もある難病だった。

難病と言っても外的にも内的にも変わったとこは余りなく
疲れやすいことと、時々起こるめまいをのぞいては健康な
人と同じで、時々増血の為の注射を打つだけで、
医者からも自覚症状が余り無いのだから、仕事も軽いものであったらしても良いし、
白血病に移行しないように注意をする為、病院には通うようにと診断された。

アメリカで治療が成功しそうだと言う新聞の記事を読み、
アメリカだったら「もしかして」と言う希望がこずえさんの
アメリカ好きを加速させた。

検査入院を終え、退院し、理解ある会社のおかげで、
部署は変わってしまったものの、無事入社し、毎日覚える事の多さと
忙しさは一時的に病を忘れさせた。

でもそれからが彼女の苦しい時間の始まりだった。

外的にも内的にも変化が無く、今は健常者と変わらないのに、
難病に指定され、白血病に移行してしまうと骨髄移植
などの治療もあるが確実に生存率が急速に低下する。
日本でもその病にかかっている患者は7000人程度と少ない。

一般的に認知されていない病気で、まして外見が変らず
社会に出れば、口さがない人間の餌食なるのは見え見えだ。
疲れやすいのでどうしても休みがちとなり、彼女の病気を
知っている者でもややもすると不平をもらし、
それが間接的に聞こえてくる。
当然仕事の後のつきあいもできないので、
本当に仲の良い友達も出来ずそれが苦しい。
為す術も無くあっという間に1年が過ぎ、苦悩し
これからの「生」を模索していたこずえさんは決断した。

今となってはもうアメリカに旅する事も永住の希望も
おあずけだけど、もし万が一、病魔が自分に打ち勝ってしまったら、
私の身体を今通っている大学病院に献体し、
病気完治の研究の為使って欲しいと申し出、
憧れのアメリカで散骨してもらうと。残された時間は
どれだけあるのかは分からないけど、それまでの時間を自分のために使い切る。
そして英会話を習い始めた。
使う事が果たしてあるのか迷う事もやめて。

短くても自分の歩むべき道の旅程表を書き、実際に目的に向かって歩み始めた。
しばらくしてホームページで私の会社を知ったらしい。

私が最初に受け取ったメールにはこう記されていた。

私はアメリカが好きで、でも行った事は無いのですが
ロスアンジェルスで散骨をしたいと思います。

ロスアンジェルスと言っても広いそうで、
どこがいいのか分かりません。
お勧めの場所などありましたらお教えください。
また私は難病にかかっており、後何年の命かも分かりません。
そこで、今通っている大学病院に、私の身体を
医学の将来の為役立てる事が出来たらと思い
献体し、その後、是非ともアメリカで散骨したいと希望しています。
ただ心配なのは、大学病院で火葬をしてくれるのですが、
散骨するのには細かく砕かないといけないと聞きました、
アメリカではどうなのですか?
また、アメリカまで送る方法はどうしたら良いのですか?

メールを読み終わり、虚脱状態のまましばらくの間
椅子から立つことが出来なかった。
生前登録するケースはあるが事情が違い、ほとんどが家庭
環境からの理由で、ここまで自分の死に真正面に取り組み、
冷静に考え準備をすすめるケースは稀だ。

高木こずえ様
お問合せ有難うございました。私のお勧めする
場所はニューポートビーチです。
海のきれいさは他の場所と変わらないのですが、
町並みに緑が多く、パームツリーが生い茂り、ハイビスカスや
ブーゲンビリアが咲き乱れています。
ロスアンジェルスの飛行場からは車で1時間
ぐらいかかってしまうのですが、
空気も澄み太陽の光もとってもさわやかな所です。
海岸線は崖の所が多いのですが所々に
プライベートビーチみたいな小さい海岸が点在しています。
冬には沖まで出ると鯨の泳ぐ姿も見る事が出来ます。
ラッキーだったらですけどね。
お問合せの件ですが、こちらでは御遺骨を
砕いたり、パウダー状にする必要はありません。
こちらでは火葬すると同時に細かくしてくれます。
それを、骨壷に入れるのですが、日本でのように
お骨拾いの為だろうと思うのですが、
残った御骨をそのままにしてはありません。
その為、パウダーにしろ、とかそういった法律・規則はありません。  
私自身は自分の骨を後で砕かれたりするのは嫌ですし、
人に薦められませんが、アメリカでは必要ありません。
それと、送る方法ですが、日本の国際宅急便で海外に送る事が出来ます。
アメリカ国内は、UPS、フェデックス、
郵便小包でも取り扱ってくれ、全く問題ありません。
もし参列する方が米国内に持ち込む時には、
税関で聞かれたとしても、死亡証明書、
埋葬許可書のコピーをお見せになり
死亡原因が伝染病でなければ通関でき、問題にはなりません。
まだまだご質問があると思います、もし有れば
何なりと何十回でもメールをいただければお答えさせていただきます。
B.HORIZON

私にはこずえさんの気持ちが良く分かるような気がし、
病に触れるような内容を書く事ははばかられ、それよりも
彼女の気丈さの内にあるなにかを感じ取り、
きっと「素晴らしい」と言われるような自然葬・散骨の式に
して上げると心の中で約束するだけが精一杯で、
商売っ気は吹き飛んでいた。

数日中に連絡を受けた。

お忙しいのにまた時差があるのにもかかわらず
すぐにお返事をき有難うございます。
お薦めいただいたニューポートビーチ、いろいろな
ガイドブックで見てみました。
仰るように素晴らしい所で一目見て気に入りました。
是非ここにしたいと思います。
ありがとうございました。
今日の質問は 、私の場合生前登録して契約するのと、
例えば死後、散骨をしてもらう契約をするのと、どちらが
よいのでしょうか?

返信(前文略)
さて今日、のご質問にお答えしましょう。
生前契約と通常契約の内容の違いは有りません
ただ生前契約の場合は当社の場合5万円安くなるだけです。
言い方は変ですが、当社の売上がその分少なくなるだけです。でもそんな事はどうでもいい事で、こずえさんにお薦めしたいのは生前契約のほうです。
なぜかというと、こずえさんはどう生きるか、そしてどう自分の最後を締めくくりを真剣に考えておられる、意志の強いかただと思います。誰でも自分の最後など考えても見たくなく後回しにしたいものです。私もそうです。でもその時はいつかは来ます。
10年後だろうが50年後だろうが。
でも自分を献体に提供し、葬儀までを決めておくと言う事は、それまでの時間自分の「生き様」を自分で作っていく事に他ならないと思います。
こんなに素敵な事は余りありません。
それまでの時間を有意義に自分の意思にそって目一杯生きる。それを支えてくれるのが、生前契約だからです。ご自分の苦しい、そしてどうにもやりきれない気持ちに鞭打ち、献体・散骨をお決めになったこずえさんだからこそ、お選びになる資格があるのではないでしょうか。
詳細を知らないで偉そうな事を言ってすみません。
でも私のいつも思っている事信じている事をお話したので決して気分を害さないで下さい。
B.HORIZON

それから十数回に渡り、個人的なこと、夢などを書いたメールの
交換が続き、気分は実の子供以上に、打ち解けてメールで会話する事が出来た。
考え方を変えることで、重い人生を背負っている人間が明るく、
明日への抱負を語れる事を教わった。
最初のメールから18ヵ月後、少しメールのやり取りが途絶え、
出さなくてはと久々のメールを書き出した時
メールの着信のサインが点った。

何となく言葉に詰まっていたのでまずはとメールをと
開いてみると、姓は同じだけども名前はこずえさんではなく、
おかあさんからだった。
短い文面には「昨日永眠致しました。」と、あり、
その短い言葉が大きな愛情を表していた。

船は内海から太平洋に出、波は大きくなったが、
船が大きいので揺れは小さい。
参列したのはお母さんだけだったけれど、
サロンではじめて見たこずえさんの写真は病気のせい
であるのか、色白で目元のすずしい母譲りの顔立ちは、
まるでデ・ジャブーのように初めて会ったとは思えなかった。
私は数日前から今日の準備を済ませ、
白いバラでこずえさんを送りたかったので、
朝早くから数軒の花屋を巡り回った。
船長とクルーにこずえさんの人柄や何故今日が
あるのかを話し、心を分かち合い、船長もお母さんに
お悔やみの言葉を贈った。
船長の到着の合図に従い、式が始まり、
船尾のスターンテーブルに降りたおかあさんは、
自分が揺れる船にいるのを忘れたように骨壷を両手で抱き
離そうとはしなかった。
涙がとめどなく流れたが、ニューポートの町で買い占めた
沢山の白いバラを、まるで波に恨みをぶつけるように
吹き散らし、きらきら光る小波とバラの白さが海を満たした時、
お母さんの気持ちを変えさせた。
ふっと何事も無かったようにうなずくと、その手から
真っ白い骨壷は離れ、白い海に滑り込み、
お母さんに手を振るようにブルブルッと骨壷を揺らせ、
ゆっくりと切なそうに円を書き、消えていった。

散骨屋は悲しい職業だ。病への恐れや、苦悩に慄く若者に、
方向を指し示す言葉や、心の痛みを和らげる術を持ち、
いつも将来や未来形で語れる医者や教師と違い
その人特有の素晴らしさを過去形で語られることでしか知ることができない。
だからこそ、その人となりが思い出される時必ず、
人生を締め括ったその方個有の自然葬が思い出されるよう
創り上げなくてはと思う。

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