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あの日の空は鈍色だった

私は中学で部活を辞めた。

正確には中学三年間はしっかりと部活をし、それ以降は部活の様な物には所属しないと決めたのだ。大袈裟に言えば私に染みつく負け犬の根性はこの頃に身についたものだろう。

幼少の頃から運動神経が存在していなかった。走っては転び、飛んでは倒れ、自転車には中々乗れず、縄跳びで躓くのはいつも私だった。動く事は嫌いでは無く、様々な事に挑戦してはそのほとんどで挫折してきた。才能や努力の問題では無い。そもそも基礎が出来ないのだ。続ければどうにかなるレベルでは無いのは誰が見ても明らかだった。

そんな私にも少しだけ続いていた事がある。(と言っても二、三年ほどだが)剣道と水泳だ。そんな小さな小さな武器を手に、私は中学校入学を迎えた。

私の中学では、基本的に何かしらの部への入部が義務付けられていた。今では多様性の面からそんな学校少ないかも知れないが、それほど昔の話では無くとも、田舎は都会より十年、二十年ほど時が止まっていると言えば理解してもらえると思う。(だから私は田舎が好きなのだが)

私の学校に水泳部は無かったため、必然的に私の足は武道場へと向かっていた。武道場からは聞き慣れた心地良い発声が私を迎えてくれている。武道場へ一礼してから入ると、その様子を見た先輩と思わしき男が私の元へと近づいてくる。お世辞にもイケメンとは言えないが、とても感じが良さそうで笑顔が爽やかだった。

「あれ?もしかして経験者?それなら基本的にウチの部活は初心者ばかりだからすぐ戦力になるよ。嬉しいなぁ。」

と言った彼の声は後半ほとんど聞き取れ無かった。私は今すぐこの場から逃げ出したいのを必死に堪えた。喉奥から熱いものが込み上げてくるのを必死に飲み込み、涙目になりながらも口で息をした。

彼の口臭はとても臭かった。

勿論、感じ方は人それぞれだと思う。彼の名誉のためにお伝えすると、おそらく私が強烈に苦手な匂いだったのだろう。汗の染み付いた面や小手よりも、裏庭のドブ川よりも、牛乳を拭いた後の雑巾よりも臭かった。いや、臭く感じた。あの香りを表現する言葉を何十年経った今でも私は見つけられずにいる。

そのあとの事はよく覚えていない。はっきりと分かっている事は、私はその後、剣道部の見学へは一度も行っていない。

そして私は成り行きで野球部へと入った。野球好きな祖父は大層喜び、私にグローブやバットを買ってくれた。そんな祖父を見るたびに申し訳なさで胸が潰れそうになり、せめて野球だけは三年間どんな事があろうとも続けようと心に誓った。それが悲劇の始まりとも知らずに。

一年生の頃は良かった。初心者も多く、どんぐりの背比べで実力差はさほど無かった様に思う。だが二年生になった頃から様子は変わってきていた。レギュラーメンバーは頭角を現し、明確に出来る人間と出来ない人間がはっきりしてきた。私はその中で控えめに言って下の下の下だった。

当たり前の話だが、入部までキャッチボールすらほとんどしたことが無く、ルールも曖昧。加えて前述した様に運動神経は未だ発見されていなかった。その上、入部同期もほとんど成り行きなのだから上手くなる筈も無いのだ。後輩が入部してきてからは、球拾いが上手な先輩として認識されていたのは自他共に認めている。

それでも練習はサボらず行った。自主練もしていた。この年になり初めて気づいたのだが、私は本来真面目な方の性格らしい。練習量だけで言えばレギュラー陣と遜色無かった様に思う。

それでも生涯試合数は3試合。結果は三振、一度もボールが来ない守備要員、フォアボールからの牽制アウト。ここぞという時ですら実績を上げられ無かったのだから仕方ない。それでも腐らず練習していた事だけは褒めてあげたいと思っている。

そして迎えた引退試合。監督からは後輩のために数人の三年生がベンチに入らない事を告げられた。実力や今後の事を思えば致し方ない。私はメンバー発表前に諦めていた。同級生は元気よく返事をし、背番号を受け取る。そこでちょっとしたサプライズがあった。ベンチメンバーから漏れた三年生に、ランナーコーチャーやスコアラーと言った、いわばマネージャーの様な役職でベンチにいる事が許されたのだ。試合に出る事は無くともチーム一丸となりベンチで感情を共有する事が出来る。監督の粋な計らいだった。そして私の番になる。

「お前はウグイス嬢だ」

?ウグイス嬢?

どうやら引退試合をする球場には放送室があり、選手名の読み上げが出来るらしい。そこに私は抜擢された。もうお気づきだろう。三年生の中で私だけベンチにいない。私の居場所は放送室だった。どういう感情を抱けば良いのかわからず、力無く返事をした後は、時間が無いとの理由で放送室へ急ぎ拉致され機材の説明を受ける。その場にいた三年生は私だけだった。眼下では同級生が最終調整のため練習している。私は暑くなるからと母が持たせてくれた大きめの水筒で喉の調子を整える。試合開始となり私の出番はかなり早めに回ってきた。

「一番、センター、◯◯くん。背番号、8。」

同級生で最も足が早い水道屋の息子の名前を呼ぶ。この瞬間が一番辛かった。そして打順が一巡すると代打が来るまでやる事は無い。放送室は空調が効いていて、水筒の中身はどう試算しても余るだろう。相手チームの一年生は二人で来ていてもうふざけ始めている。試合は贔屓目に見てとても良い試合だった。何度もベンチは盛り上がり、観客席の父母は沸き立った。私はそれを横目で見ながら代打を知らせる部屋のノックに神経を尖らせている。結局そのまま私の出番はなく、1試合目で私たちの中学は敗戦した。2試合目の人が来るまで部屋からは出られないため、試合後に観客へ頭を下げたり、ベンチで肩を抱き合い涙する同級生を上から眺め、監督が最後に何かしら選手へかけた言葉は私の所までは聞こえない。そんな私の夏が終わった。

外へ出ると空は陰り始めていた。私が最初に思ったのは水筒の言い訳が出来たなという事。なんとなくそのままチームへ合流する気になれず球場内をフラフラと歩き回った。そのうちに空の青は無くなり、何かが降り出しそうな気配がする。その時に見上げた鈍色の空を私は一生忘れる事は無い。

以上が私の部活の思い出である。誤解しないで貰いたいのが、私はその事を全く恨んではいない。あえて言えば己の不甲斐なさに腹は立っていた。だが今ではそれも良い思い出であると言える。冒頭でお伝えした負け犬の根性とは、負け犬根性の本来の意味である「負けて当たり前の精神状態」という意味では無い。負け犬にもただで負けない根性があるという意味である。

実際、私はその後部活という類のものは一切やっていない。ただ運動は好きで週に何度かランニングもしている。娘がやりたいと言ったスポーツなどはとりあえずやらせてみて、本人がどうしても難しいという事であれば辞めてもいいと伝えてある。私はあの経験を決してネガティブな感情とだけは捉えていないのだ。人にはそれぞれ出来ることと出来ないことがある。あの時の監督の気持ちをもう聞くことは出来ないが、あの時はあれが最善だったと判断したのだと思いたい。少なくとも私にとってあの経験は無くてはならない経験だった。あそこで少なからず挫折と虚無を経験したからこそ、ここぞという時に踏ん張りが利ける。そう信じて今後も生きていくのだと思う。

最後に、就職をしたり新しい環境に行くとこんな質問をされる事がある。

「部活とか何かやってた?」

「中学だけですが三年間野球部でした。」

「へーそうなんだ。ポジションはどこ?」

私は胸を張りこう答える。

「ウグイス嬢です。」

#部活の思い出

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