生き方を変える

日本に帰ってきて、涼しくて日本の気候に感謝するとともに、向こうで得た新しい気づきを忘れないようにしようと、なるべく不便な生活のしかた、車や公共交通機関の利用も最小限にし、なるべく歩く、自転車で行く、重いものも面倒くさがらずに自分で持って行く、エアコンを使わない、風呂はなるべくお湯をたくさん使わず簡単に済ますなどを心がけた。

これは、当時金銭的に困っていたせいもあるが、一方には便利すぎる生活が地球環境を破壊し、生物としての人間を弱体化させているのではないか?という思いもあった。実際このような生活態度は精神的な強さを生み、自信が生まれ、心の余裕に繋がった。

そして、ここから生き直そうと神に誓った。
その時誓ったのは
①精神的な目に見えないものの世界と物質的な目に見えるものの世界の両立をはかる
②どんな意見や人物のことも馬鹿にしない
③中道ではなく、政治的に右左の思想にも耳を傾け、よいものは素直に取り入れる
ということだった。

これだけ書くと何のことかわからないと思うが、わたしは今までは、浮世離れしたスピリチュアルに傾倒しては痛い目に遭い、その反動で金銭的物質的世界に閉じこもったり、自分と意見が違う人をシャットアウトし人の話を聞かずに独善的に生きることで狭い世界の住人になったり、政治的に極端な人、おかしなことを言う人、思想が正反対の人を極度に恐れ、毛嫌いすることで「自分こそ正しい」と勘違いして、大した人物でもないのに人に思想や意見を押し付ける痛い人間になっていたので、もうそんな自分を捨てようと思ったのだ。
これらは、自分の頭で考えたことではなく、天から降ってきたように現れた「神」からのメッセージと言ったらいいか、そんな啓示だった。
そして、この価値観の転換によって、自分の中の様々な制約が崩れ、柔軟で新しい考えができるようになり、心が開放的で楽になり、何よりも人間としての成長につながることができた。

アフリカに行く前、福島から帰ってきた時、以前ライフステーションというひきこもりや精神疾患のある人の新しい居場所をつくることに参加し、そこで職員として働くことになったが、月10万円という薄給に激怒して一方的にやめて中川区の精神障がい者の作業所へ行って、現行福祉の中で非常にやりがいのないつらい思いをして後悔したことを思い出し、福島から原発事故で命からがら逃れてきた人がお話をするというので、そこへ話を聴きに行った時に理事長に謝ろう、これはわたしのけじめだと決心した。

そこへ何年ぶりかに行くと、遠く離れた西尾のめぐみ農場の織田さんがいて、「ここで玄米菜食のビーガンカフェをやることになった」というので、非常にびっくりするのと同時に、是非手伝いたいという気持ちが湧いてきて、店の内装作りの段階からボランティアで手伝うことになった。そこで自然栽培という無農薬・無肥料でつくる野菜のことを知り、それを使ってランチなどを提供するとともに、店内でも野菜販売をしていた。そのうち、織田さんから無農薬の野菜の仕入れや配達をしていたので、「これらの野菜の流通を手伝ってくれないか?」と言われた。あまりにも突然で、しかもお金がどれだけもらえるかわからなかったので
「まずやってみます」
と答えた。無農薬の野菜でもレベルが極端で異次元の世界だと思っていたのに、肥料も使わないなんてさらに異端で、本当にお金になるのか? そこまでこだわる必要があるのか? と疑問だらけだった。しかし断ってしまうとチャンスを逃す気がしたので、まずはやってみることにした。

声がかかってから2ヶ月は端境期と呼ばれる野菜がない時期だったので、実際仕事がなかった。6月に入り少しずつ夏の野菜が出てきた時に、織田さんと一緒にマルシェやイベントに出店し陳列の仕方、販売の仕方、焼きそばの焼き方、たこ焼きの焼き方などを教わった。今まで安いものしか買ってこなかった庶民なので、高い野菜やこだわりのものを売るのに抵抗があったが、商売で重要な要素である高値のものをいかにたくさん売るのかということを実践で学ぶ貴重な経験となった。しかしこの頃はまだ見習い助手で、朝から真夜中まで働いて1日1,000円くらいの給料で、夜中までかかってマルシェの洗い物をしているとしんどくて泣いていたのを覚えている。

マルシェがない日は、週2回の無農薬有機栽培野菜の仕入れのかたわら、イベントの日雇いのスタッフをやり、起業の学校という講座にも通っていたのでとても毎日がハードだった。遊ぶ暇はもちろん休息する暇もなかった。

7月になってマルシェの回数も増えた。マルシェは楽しかったが、「これって、いわゆるテキ屋なんじゃないか?」わたしの同級生がサラリーマンや公務員の管理職になって働いているのと対照的に自分の境遇を考えると、惨めに思えたり、反社会的に思えたりした。また無農薬野菜の仕入れにしても、当時の気持ちは、「世の中がどんどん進歩する中、無農薬で野菜を作るなんて原始的で、それを販売するなんて遅れた人間じゃないか?」と正直思っていた。父方が代々農家で高度経済成長の中、衰退産業になって行くのを親戚一同は見ていて、うちの父には農業を継がせずにうちの父は農業に否定的で、ただ会社勤めをして道に外れずお金さえ稼げばいいという価値観だったので、わたしの潜在意識にはそういう価値観があり、見事に親の意向に反する職業になったので戸惑いが大きかった。特に最初に無農薬の野菜を仕入れに田舎に行った時、道の駅で最先端の福祉をやっているNPOの人と道の駅で会って、世の中が進歩し複雑になっていき、それを解決するような進んだことをやっている人がいる一方で、わたしはいかなる会社、NGO、NPO、音楽などの芸術活動、まちづくり、福祉、介護、セラピストなどすべてに失敗しほとんどお金を生まないまま逃げ、ついにとうとう誰でもできるような農業の、さらに単純な仕入れという仕事にこれから向き合う、なんて愚かな人生なんだと悲しくなったのを覚えている。

しかしガンを価値観を180度変えることで治した織田さんと一緒に活動することで、自分も人生が変えられる、人が悪とか愚かだと思っているものが本当はとっても大切なものでいつかはキラキラ輝きだすのではないかと思えるようになり、苦労や面倒なことをあえて買って出るという態度を身につけていった。自分の名刺には、今までの生き方を反省し、「勇気、誠実、謙虚」と明記した。言葉で自分を変え実際そういう人間になるという作戦だ。

2014年の夏に事件は起きた。
自然栽培の野菜を使ったビーガン・コミュニティカフェ「里まちカフェめぐみえん」はガン患者のめぐみの会、南区の隠れ家ギャラリーえん、北区のライフステーションの三者のコンソーシアムという共同事業で動いていたのだが、ガンを病院の標準療法で治すのではなく、玄米菜食や気功、生きがい、様々な超常現象で治す、そういう世界を紹介するという方針が、わたしが謝罪したライフステーションの理事長の反発を招いたのか、一方的に出て行くよう要求され、ついにはカフェもライフステーションの職員で占領して、11月にオープンして8月、1年も経たないうちに閉店せざるを得なくなってしまった。裁判で争い、弁護士には勝訴はできると言われたが、勝訴しても相手に支払い能力がなければそれで終わってしまうとも言われてやむなく退去、閉店することになった。がん患者の人も多く集い、物質文明にとらわれない新しい生き方を目指す人にも大好評だったお洒落なカフェだけに多くの人が落胆することとなった。

わたしは、やっと生き方を変えることで病気が治るということが腑におち、医学や福祉以外にも様々な生き方や代替療法、不思議な世界、奇跡的な世界があることがわかってきたところだったので非常に残念だった。と同時に、患者を治せもしない精神医療をはじめ、患者を夢も希望もなくただただ囲い、治癒や回復の奇跡を否定し、障がい者としての道しか考えず、それに反する考えは徹底的に弾圧する(少なくともわたしにはそのように見えた)精神保健福祉というものが、わたしに与えた損害や時間の喪失のみならず、新たな世界への攻撃にも感じ、これは二度と赦すことはできないという思いを持った。それは単純な怒りではなく、精神医学や精神保健福祉の名の下に当事者の抑圧に加担している医療者や福祉職員への同情でもあり、誰かを憎む・恨むというものではなく、そういう概念・仕組み・制度への怒り・不満であり、そういったものと向き合い闘い、多くの人を解放したいという根源的な、心の底から溢れる海の深さのような大きな感情だった。

織田さんからは、マルシェを一人でやってくれないかと言われた。正直織田さんと数年かけてじっくり学んでいこうとのんきに考えていたのでショックだったが、カフェの姿勢や将来性が好きだったのでそれを継承していくという気持ちでやって行くことにした。名前も今でも「めぐみえん」という名前で続けている。

カフェには、がんの代替療法を中心としたたくさんの本があり、それも処分しなくてはならなくなったので、織田さんがブックオフに売りにいこうとしていたので、勉強したいので譲ってくれないかとお願いした。料理の本、オカルトやスピリチュアル、陰謀論まで含む今まで接したこともない様々な本があったが、これを当時頼まれて始めたばかりの高齢者施設の夜勤で次から次へと読んでいった。今までの医学の教育や社会の常識、歴史などがある意味嘘であり、音を立てて崩れて行くのを感じた。イベントスタッフの日雇い人夫、零細農業、「テキ屋」、夜勤介護労働者、社会の底辺と呼ばれている仕事をしているわたしにとっては、

・世の中すべて嘘ならば、最底辺と呼ばれている人間こそがもっとも真っ当な生き方ではないか?

・「精神障がい者」と呼ばれている人間は社会不適合者と烙印を押されているが、本当は社会こそがおかしいのであって、彼らはごく真っ当な反応をしているのではないか?

そう思えるようになり、離脱症状の怒りも、目の前の人や精神科医、福祉の理事長といった小さなものではなく、社会の仕組み、文明のあり方、政府や企業までもあやつる大きな力といったものに感じるようになり、それが怒りというよりも愛に昇華していくのを感じた。


この文章は連載です。最初から読みたい方は以下からお入りください。
https://ameblo.jp/tetsuji69/theme-10111766182.html

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