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あのね、自責とは何かを考えたんだ

久しぶりのnoteです。
安定して、アウトプットができてないけど
ましおとしては、このテーマで書きたい。そう思った時に吐き出せるこの場所が、そしてその私の考えを聞いてくれる人がいるこの場所が大好きです。

今日は

自責するってなんだろ。

そうふと疑問に感じたましおの考えを、言語化することにします。


ましおの自責との出会い

ましおが初めて、「自責」というこの言葉が日常茶飯事のように出てくるようになったのは、大学1年生の頃、大学受験専用予備校でアルバイトをしていた頃だった。

何か問題が起こるたびに、先輩たちは口を酸っぱくして、
「自責しよう」
そう言ってきた。

当時、ましおは脳死していたので、
その意味を深くは考えずに、
「文字的に、問題が起こった要因を相手から見出さずに、自分を責めようってことか。」そう考えていた。


ましおはそれから1年経って、
違った風に自責の意味を解釈している。
ましおの原体験もあって、
「自責は自分を責める。」それだけの意味ではないと思っている。



「自責」 その意味をコトバンクで調べた。

自分で自分の過ちをとがめること。また、自分に責任があると考えること。


また、こうも載っていた。


自分で自分のあやまちを責めること。


とにかく、ましおが1年前に考えていたように
自分に起きた問題の要因を見出すことであるみたい。



ましおは、自責をこう定義したい。

「自分の選択に責任を持つこと。」



辞書での意味の自責は、メリットが多い。

何か問題が起きても、
自分に悪かった原因を求め、相手を責めることはないから、
衝突がなく自己研鑽にも繋がる。

もし、事実、相手のミスだとしても、
そのミスを防ぐための努力ができなかった・・と相手の粗探しではなく、
自分の粗探しをするわけだから、性格も良く見える。


でも、自己流に解釈したましおは苦しかった。
なぜなら、自分を咎めていたからだ。


問題が起きたら、できないことがあったら、それは自分に悪いところがあるからで、
もし、この悪いところを改善するために努力したら、きっと望みは叶うんだ。そうとも捉えていた。

望み通りに行かなくても、自責する(自分を責める)ことで、
望み通りに行かない状況を正当化させていたのだと思う。

物事がうまく行かない時、その状況を受け入れられない。理解できない。
これが苦しい。

私が悪かったから、上手くいってないだけ。

こんな風に考えるから。
いつか、どうにか出来るって考えちゃうから。
状況が良くならなさそうな、そんな現状が苦しい。



でも、ましおは、自分が苦しんでることにようやく気付いて、
タイミングや、人の気持ちには、自分の努力で打ち勝てないことを知った。(これは弱音かも)


思い通りに行かない→自責する

望み通りに行かない結果だとしても、自分は挑戦してみよう。
そう選択したことへ責任を取る。
望み通りに行かなくとも、その事実を受け入れる、挑戦して生まれる代償を負う、それが責任を取ること。




結局辞書の意味はその通りだった。


ましおの主張

ましおがこのnoteで言いたいのは、

自責の「責」は責めるだけではなくて、
責任の意味も含んでいるということ。


常に、私たちは選択の機会に溢れている
選択することは、他の可能性を切り捨てることで、
その度に自責することを念頭に置くべきなんだと思う。

それくらいの覚悟を持って、行動を選択するべきなんだと思う。



終わりに。

ましおは、自責を否定的な意味を含んで解釈していたから、
今回、そんなことないことを理解したぞ!そういう思いを込めて言語化した。忘れないように。

ましおの今回のnoteは、人間関係において苦闘をしている時に
自責について考えるきっかけが生まれた。

でも、仕事においても、人間関係においても、私生活においても、
自責は、自己研鑽へのとっておきの魔法だ。

何が課題だったんだ?
もっと良くなるには何をするべきなんだ?

常に自分にそう問いかけ続けられる人は、底なしの成長をするんだろうと思う。




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