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「自己肯定感、大事よねえ」の巻

自己肯定感って、大事よねーーーーーー。

と、当たり前のことを思う。

けれど、そんな当たり前のことだけど、意外と蔑ろにされている気もする。誰から?世界から?日本から?というのは印象に過ぎないので、まずは僕から。

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昨年、自己肯定感についての本をいくつか買って読んだ。

正直に言うと、僕は自己肯定感についての本を読むことに、なんだか恥ずかしさがあった。

これってなんでなんだろう。

・「あいつハウツー本いっぱい読んでるらしいぜ」って言われるみたいな恥ずかしさ。

・なんか「いっぱしの大人です」みたいな顔して生きていながら、必死に「自己肯定感」を高めようとしてる裏側を覗かれる恥ずかしさ?(必死で読んだわけでもないんだけど、そして誰に知られるわけでもないんだけども。)

この「なんでだろう」は、なんだか興味深い。

あ、すごくシンプルに言うとアレかな。「イケてる感じ」がしないからかな。

人の「イケてる感じ」でありたい願望って恐ろしいと思う。時に人は「イケてる感じ」を死守したいから、人を傷付けもすると思う。これって男女差あるのかな。男性特有の何かバイアスみたいなのもあるのかな。(「弱さを見せるのは恥」的な感覚が僕にもあるのかしら。)

でもこの、「自己肯定感についての本を読むの(あるいはそのことを知られるの)なんだか恥ずかしい」って感覚、僕だけじゃないような気が、勝手にしている。


その上で、僕が思うのは

みんな、自己肯定感の本読もうぜ!!

ってことだ。

ああ、恥ずかしい。

「読もうぜ」の後に「笑」とか付けたい。茶化したい。。

まあ、「読もうぜ」っていうか、やっぱり大事だよ、っていう。


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自分を愛せないと、自分を自分で大切にできないと、誰かを愛したり、大切にすることはできない。

これまたとってもよく聞く言葉だし、真っ当すぎる言葉は時に右から左へ通り過ぎてしまったりするのだけれど、僕は正直30代に入ってからようやくその意味を理解してきた。

自己肯定感が幼少期から健康に育まれてきた人はよい。ただ、大人だって世界の変化のスピードについていけない世の中で、「昔からあった正解」みたいなものも最早なく、不景気で、「自己責任」とか言われ、僕の実感として、幼少期に何かしらの屈託を抱えながら大人になった人は結構多そうだなあと感じている。とある抑圧でねじ曲がった心の一部がちょっと不自然な形のまま固まってしまったり、ある支配構造の中で生きていかねばならなかった時、その構造を変えたり脱出するのではなく、どう「その支配の中で満足できるように」自分を慣らしていくか、そのことに長けてしまったり、人はする。権力者に逆らったら大怪我をするから。結果的に、権力者の顔色を伺い、次第に権力者の機嫌を損ねる人の方に神経を尖らせたりする。そんなことが起こる。権力者にジャッジされながら生きる。

多くの場合、最初の権力者は親で、その次は学校の先生。あと、時に「世間」っていう曖昧でそれでいて権力に近い圧のあるアレ。

今書いていることは、自己肯定感の本に書いてあったとかじゃなくって、色々な体験をブレンドして、今僕が思うこと。(割と全編)

自己肯定感って言葉に、「あなたはあなたのままでいいのよ」みたいな、お日様の光ぽかぽかの公園みたいな、甘ったるい感じのイメージが若干あった。というか、そこからはじめるでも全然いいし、「あなたのままで」ってのはそうっちゃそうなんだけど、僕は今は割と、もう少ししんどかったり残酷さを伴う印象がその言葉にはある。

俳優の仕事で言えば、戯曲の読解をするように、自分の中を覗いていく過程もある訳で、時に見たくない自分も知る。

余談?だけれど、そう言えば、前回の記事で書いた戯曲読解の講座の期間中、僕は図らずも「自己批判・自己嫌悪」というものから卒業した。

あ、これ卒業できるもんなんだ??というのが正直な驚きである。感覚としては、なんだか「何かを達成しない限り、自己嫌悪みたいなものは定期的に来る」とか、「ある程度はそれも気質なのか」ぐらいに思っていたんだと思う。色々と繋がっている。


僕は自立がしたいのだ。自由でありたいのだ。自分のしたいことをしたいのだ。

それは時に、孤独であり、時に誰かと離れることでもある。

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自己肯定感と似たところで、「人の欲するもの」についても、折りに触れて考える。

「自分の欲するもの」と「人や世間が欲しているもの」の区別をつけること。

これはいつからだろう、いつからか、ここに線引きをちゃんとしないと危険だなと思っている。「あなたは本当に?あなた”が”それを欲しいの?」ときちんと自分に問うてみると、意外と「みんなが欲しいから自分も欲しい気になっている」とか「なんとなく憧れがあるから」とかそんな理由で欲しがっている自分に気付くことがある。特に「憧れ」、これは危険だと思う。

僕の場合、「流行り」自体には昔から興味はなかったので、流行り廃りには影響をあまり受けずに過ごせているし、「時代の波に乗る」とか「時代の先を読む」とかもあまり関心がないのだけれど、例えばーー

・モテること

・大恋愛すること

・社会性のあるちゃんとした人と思われたいこと

例えば、そんな欲望。羨望、憧れ。

え?あれ?それほんとに必要?とかそんなことを思う。

そりゃあ、俳優として、モテたりときめく恋をしたり、最低限の社会性があったり、それは大事かもだけど、僕にとって一番大事なのは何?とか考えると、どうもそこじゃない。例えば僕は、恥ずかしげもなく言えば、大恋愛に憧れはあるけど、それってコマーシャルやドラマが自由恋愛至上主義的に、「恋こそが人生の花!!」と声高に歌ったりしてきたことの影響に過ぎないんじゃないの?とか思ったりする。

あと例えば、僕はナンパをしたことはないし、合コンに行ったこともない。あーーーどちらも人生で一回は経験してみたいなあとは思う。でも別にいいやとも思う。大学時代演劇しかしなかったから、花のキャンパスライフみたいなものとも無縁だったし、憧れみたいなものもあったのかも知れない。ただ、じゃあ僕がテニスサークルに入って、素敵なキャンパスライフを送れたかというと、うわーー、合わないだろうなと思う。残念ながら。(別に残念でもないな。)


「自分は何を欲するのか」を理解してあげるって、幼少期に何かしらの抑圧があった人間(まあ僕はそうだ。)にとっては、インナーマッスルを鍛えるみたいにして少し時間をかけないといけないことなのだと思う。手短なものでとりあえずアウターマッスルばかり鍛えていると、気づけば「人が欲しているもの」はたくさんに手に入れたけれど、どれも「自分が本当に欲しいものか」いまいち分からず、そのうち「自分が何が欲しいのかを誰かに決めて欲しい」と望んだりするんじゃないだろうか、そんなことを思う。

大袈裟なのかなあ。でも「自分が何が欲しいか決めて欲しい」ってなんだか最近、映画かな?何かでも聞いた言葉な気もする。何かに従属して、何かにジャッジされて生きる方が時に楽だから。時に人は支配されることを望む。ああ、怖い。

バブル期の糸井重里氏の有名なコピー「ほしいものが、ほしいわ」って、調べたら「いらないものはいらない」という物欲の終焉の時代を先取りしたコピーらしいけど、僕はてっきり「ほしいものを決めてほしい」って意味かと思ってました。なんかそっちの方がしっくり来ちゃうなあ。バブル期と比べたら分かんないけど、、物欲の時代終焉したのか。。?

すぐに話がずれちゃう。

自らの喜びの物差しを人(他者)に預けてしまわないこと。人の物差しで自分の人生をはかると、いつまで経っても足りない、足りるはずがない。もちろん生きていたら、互いの物差しの間をとったり、互いの「常識」を擦り合わせ時にぶつけながら生きねばなので、簡単じゃないんだけど。でもやっぱり僕は自由を求めたいのです。人の物差しを迷わず使うことは差別や偏見にも繋がると、僕はそこそこ思っています。(なんで敬語になった。)僕が「自己肯定感の本を読むことに恥ずかしさがある」のも何かしらの世間の目を気にしていて、つまり、僕だってはからずも何かを差別したり、そこに偏見をもったりしていたってことなのだと思います。(あれ、だめだ、敬語が戻らない。)


あ!書いていて改めて、僕「そんなことも知らないのか」って言われれることをすごく恐れているんだなあ、と気付く。これも幼い頃の体験だなあ。怖い思いをすると、またその体験をしないように誰かの物差しをいつまでも握りしめていたりする。余計な負荷をとろう。

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書いていて、生きていて、今の世界・社会・風習に対して思うことももちろんあるけれど、まずは僕のことから始めるしかない、よし僕はもう一個次のステージへ行こうっと!!と思いながら書きました。

「自分を大切にする人は、強く、圧があるよなああ」と思っています。(高圧的とか、刺々しいとかではなく。)それは同時に相手への信頼でもあると思っています。自分で自分を認められていない状態で、そんなエネルギーの強い人と出会うと、「うわなんだか居心地がわるいぜ」ってなります。強いスポットライトで急に照射されるような居心地の悪さ。でも、何かしらの光をその人が身体から発するのは、その人の性格でも気質でもない、覚悟と愛なのかなと思います。(最近は、人には性格なんてなくて、ただその人の身体とその人が何を好きか何を愛するのか、それ以外の個性は全部副産物だ。そんなことを思います。)(あ、「強さ」は「美しさ」と言い換えてもいいのかも知れない。)柔らかく強く美しく。

誰に頼まれるでもなく光を発するのはこわいけれど、自由でありたいし、自立したいし、ワクワクしたいので、発することにします。「わあ〜、あいつ誰に頼まれたでもなく光ってるよ〜」と言われても光ろうと思います。

養殖の狂気より健全な狂気が好き。生活の中の穏やかなマントルを。自然の寛容さと獰猛さを愛す。暴風雨のような身体を。そしてのんびりと。



藤尾勘太郎の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m065061bc1fa1


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