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その矢は抜くべきか

こんばんは福原冠です。現在2023年2月19日午後8時39分、二兎社『探りあう人たち』の稽古を終えて高田馬場のフレッシュネスバーガーで書いています。
今回の稽古は2週間。こつこつと台本を読んだ前半戦を終えて、いよいよ本番に向けて立ち上げていくところ。配役も決まった。毎日毎朝毎晩、試行錯誤している今だけど、これがアップされる頃にはもう最後のステージを終えて楽屋で帰りの支度をしているんだろう。力一杯やっていたものがちゃんと手放せていますように。余白の中に生まれる想像力を信じられていますように。

思えば、「作品に向かい、突入し、終える」ということを何度も何度も繰り返してきた。にもかかわらず未だに最強のルーティンが見つからない。日々をどんな風に過ごすのがベストなのか、今回もまた創作をしながら模索している。いつだってはじめましての景色の中に立っている。その時にしかない自分を携えて。これもまた当たり前のことなのだけれど。

2月はYU-Yen-FangさんのWSもありました。オーサム。

アシスタント講師として参加した某中学校での「コミュニケーション」の授業が今年も無事に終わった。コロナ禍ということもあって3年振りの開催となった今年の授業は一際印象深いものとなった。この授業で生徒たち(中学3年生)はグループにわかれ、修学旅行で撮った写真を元に現実と虚構を混ぜた1分程度の劇を作り、発表をする。入学した時からずっとマスク、イベントというイベントが中止になっていた彼らのエネルギーとチームワークは凄まじく、全3回と短い時間でありながら、アニメや映画をサンプリングするチームが現れたり、フィジカルシアターよろしく動物やオブジェクトを身体で表現するチーム、極端なフィクションではなくささやかなやりとりに面白みを見出すチームがあったり、こちらから教えなくとも彼らは自由な発想で渾身の作品を生み出していった。

限られた時間の中で作品を立ち上げるとき、そこには様々なコミュニケーションが必要になる。自分がいいと思ったアイディアも発言しなければ通らないし、プレゼンテーションがイマイチだと皆を振り向かせることができない。意見が通ると嬉しいけど、その意見は誰かの意見をねじ伏せているかもしれないし、それによってゲームを降りてしまったチームメイトをどうやって奮い立たせるかということで頭を捻らなくてはいけないこともある。何でもかんでも首を縦に振った結果、全く納得いかない作品になってしまうことだってあるだろう。そういった創作における様々な諸問題はつまり、プロセスを通して浮かび上がる人間関係や他者と自分のある側面での人間性みたいなもので、それらを皮膚感覚として捉えつつ、次の瞬間には愛嬌、反射神経、普段意識することのない筋肉みたいなものを駆使して発表に向けてひた走らなくてはならない。それが学びかどうかを自覚する間もなく、彼らは様々なコミュニケーションを経験する。この授業の名が『表現』や『演劇』でなく『コミュニケーション』なのもここに力点が置かれているからだろう。

「生徒たちの姿勢に、不慣れだからこその手捌きに大人は学ぶべきなんじゃないか」全ての授業を終えた帰り道でふと、そんなことを思った。言葉にするとややこしいあれこれを彼らは動物的な身体能力で乗り越えていく。できないかもしれないからこそがむしゃらに。では、できることが大前提の大人たちはどうだろう。自分の意見が通らない場合、自分のやりたいことが皆にまるで通じない場合、手を上げず、声を荒げずにどう進めていくか。どうしても乗れないアイディアが今まさに進行してしまう時、どう振る舞うのか。コミュニケーションの授業が必要なのはむしろ大人の方なのかもしれない。

「作品に向かい、突入し、終える」を繰り返すということは、矢が刺さり、その矢に気付き、抜くことのようだ。その矢を抜かないとやってられないにも関わらず、どこからか不意に矢は放たれる。自分は数年前まで矢が刺さっていることに気づきもしなかった。しかし刺さったその矢は抜くべきか。自分だって知らぬ間に矢を放っているかもしれないのだ。矢を放つ人を止められなかったこともあるだろう。考え続けなくてはいけない、そう今は思っている。



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https://note.com/beyond_it_all/m/me96780b246d6


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