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べてるの家のオンラインマガジン「ホップステップだうん!」 Vol.231

・巻頭写真「岡本さんの乾杯」(写真・文/江連麻紀)
・佐々木実さん × 向谷地生良さん 対談(短縮版) 前半
・「再発まつり」 宮西勝子
・ありす便り
・福祉職のための<経営学> 093 向谷地宣明 「分配と信用創造」
・ぱぴぷぺぽ通信 すずきゆうこ 「お祝儀」

「岡本さんの乾杯」

べてるの最古者のひとり、岡本さん。
堂々と道端でお昼寝していて、「死体」と間違われたこともある「元祖ぶらぶら族」です。

コロナ禍前の当事者研究全国交流集会は、終わってから会場で懇親会が行われていました。その乾杯音頭は毎回、岡本さんが担当してきました。

今年はオンライン開催で乾杯はありませんが、2013年の当事者研究全国交流集会の懇親会の岡本さんの乾杯写真に向かって乾杯してください。

メルマガに写真掲載していいか確認の電話をしたら寝ていた岡本さん。すぐに起きて「(掲載)いいよ!」と答えてくださいました。

「寝ながら野球のピッチャーのこと考えてた。」と言われていました!

第18回当事者研究全国交流集会 北海道大会
2021年11月6日(土)10:00〜16:30


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看護師 大募集中!

社会福祉法人浦河べてるの家では、現在看護師を募集していています。
職務の内容は主に地域での訪問看護などです。
詳細は下記リンクの採用情報ページをご覧ください。
採用情報ページでは普段実際に行っている「研究的」な訪問看護の場面を公開しています。

べてるの採用情報の詳細はこちら

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佐々木実さん × 向谷地生良さん 対談(短縮版) 前半

今年9月に79歳で逝去された佐々木実名誉理事長と向谷地生良さんが4月頃に行った対談の一部をお送りします。ノーカット版は今度出版される向谷地生良さんの新刊(タイトル未定)に収録される予定です。

向谷地 私が佐々木さんと最初に出会って今年で44年になるわけですけども、佐々木さんは浦河日赤に入院して50年でしたっけ。

佐々木 そうです。昭和46年ですね。

向谷地 50年というと、半世紀ですね。この日高の精神医療の歴史を佐々木さんは見てきたわけですから、そういう意味でもすごく興味あるし、べてるが出来てから今年で38年になるんですけど、べてると一緒に歩んできた佐々木さんから、いろんなことをあらためて伺ってみたいなと思います。
そもそも佐々木さんがお生まれになったは?

佐々木 昭和16年(1941)、生まれたのは小樽なんですよね。

向谷地 何歳の時に襟裳に来たんですか?

佐々木 生まれても間もなくに来たんです。

向谷地 そうだったんですね。そして高校は浦河高校に入って。当時襟裳からの直通のバスで通ったんですか?

佐々木 うん、2時間ぐらい、途中、様似で乗り換えしたりして。

向谷地 浦河高校というと、私が浦河に来た43年前っていうのはまだあの木造の長屋みたいなところで、そのちょうど道を挟んで目の前が日赤の精神科病棟だったんですけど、佐々木さんが浦高を卒業して、すぐに精神科病棟ができるわけですけど、精神科病棟には、どんなイメージをもっていましたか?

佐々木 いや何もわかってなかったですね。入ってはじめてわかったんですね。入って、びっくりして、とんでもないところに来たって思って、病棟の下の扉が開いていたのを見て、逃げたことがあります。でも、結局、もどって、もう一回入院して、でも、入院してからは楽しかった思い出ばっかりです。

向谷地 そうですか、ところで、どういうきっかけ日立製作所に入ろうということになったんですか?

佐々木 新聞で募集広告を見て、それで日立に行ってみようと思って。

向谷地 当時、日本はちょうど高度成長ですもんね。多くの若者が地方から都会に行って働いたんですよね。昭和30年代から40年代にかけて確か、最初は茨城の日立に入られて、神奈川に転勤されて。

佐々木 そうですね。神奈川の日立の工場には、約8000人くらいの社員がいて、そこに通算8年勤めました。

向谷地 そこで体調を崩した時はどんな感じになったんですか?

佐々木 僕は田舎者で、都会生活に馴染めなくて、そのうちにだんだん眠れなくなって、友達もいなくて、本当に1人ぼっちだったんですよね。それでお酒は飲むし。変わり者だったんで、体調崩しちゃって。会社は辞めるなっていうのを勝手に辞めちゃって、それで北海道内を彷徨って、それで襟裳の実家にたどり着いたんですよね。

向谷地 今思えば、ああ調子悪かったなという感じですか。

佐々木 そうですね。

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