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【第38話 キッシュが冷たくなるまえに)

 「プレイねぇ、確かにそうだよ。明治時代の鹿鳴館みたいに、社交なんて見たことも聞いたこともない異文化の習慣を、日常にある出来事のように行うなんて、演じることでなんとかやれたんだろうよ。それの明治時代から未だに引きずってるのもなんだか成長してないみたいだが、舶来品を有難がる精神構造は、100数十年たっても乗り越えようもない高い文化の壁なのさ」
 凪人はそう言うと、グラスにピッチャーから水を注ぎこんで一気に飲み干して話を続ける。

「こういうフランス料理のような洋物の文化が、未だに憧れだの劣等感をあおってようやく成り立ってるのは、味覚なんて実は保守的で、なかなか受け入れるには時間がかかるからじゃないか?まずフレンチなんて家庭料理にまず入っていかないからね。バゲットやクロワッサンくらいだろ。それすら非日常食だ」
 「まぁ、たしかにその通りだよ。イタリアンはパスタがあるから比較的家庭料理に食い込んでいるが、家庭料理でフランスのビストロ料理に近い物っていったら、フリカッセがホワイトシチューになっているくらいかな?そのくらいしか思いつかないよ」
 僕はそう言って一般家庭の食卓に思いをはせる。冷めたコーヒーカップの淵をゆっくりとなぞりながら考えてはみたが、ペットボトルに入ったフレンチドレッシングくらいしか思いつかない。

 「もしも舌平目のムニエルなんか家庭で食べていたら、レストランでありがたがって食べることなんかないよな。実際そんな難しい料理でもないんだけど、こんだけ情報も物も溢れている世の中だ、作って食べてみるといいんだよ。でもやらない。ありがたいものって、自分で作って出来る物じゃだめなんだよ。自分じゃどうにもできないから高い金をだして消費しないと意味ないんだ。難しくて作れないからありがたい。だから肝心な本質の部分は目をつぶって、その部分に対してお得意の情報処理なんてしようともしない。そしてどうでもいい情報で頭でっかちになっていく」

 凪人は悪びれた表情も見せず薄っすらと笑みを浮かべている。

 「ほんと不思議だな、食にまつわる環境って、食そのものよりも、その周辺の情報をいかに消費させるか勝負みたいになっていて、どうでもいい情報ばっかりが目についたり聞こえてきたりするからウザいんだよ。ほんとノイズだらけで普通に楽しめやしない。今まではそこから離れていたから正直精神的に健康でいられたんだけど、またこの世界に片足半分突っ込んでしまって、めちゃくちゃノイジーな奴がいたと思ったらそしたらお前か・・・」
 見上げると凪人はゲラゲラ笑っていた。
 「いやぁ、楽しいなぁ。こんな形で再会して、またライバル関係が復活するなんて。東京からはるばる遠く離れた小さな街に来た甲斐があったってもんだぜ。お前が料理の道に片足だけでも突っ込んでくれて嬉しいわ。ノイズだらけの職業でけっこう。お前が言ってることが安っぽい貴族趣味なのか、逆張りのスノビズムなのかよくわからんが、飲食業は80年代からずっとこんな感じで続いてきてるんだ。そんなに簡単に変わったりはしないぞ」

 安っぽい貴族趣味と逆張りのスノビズムのくだりで思わず吹き出しそうになってしまった。自分が言ってることがたしかにそういう風に聞こえたりするのだろうか?横のはるかさんも美穂もコーヒーを飲み干していて、はるかさんは僕等の話を興味深そうに聞いているが、美穂は暇を持て余してスマホをじっと見ている。だらだらと禅問答をしていても埒があかないので、そろそろ帰宅の時間なのだろう。

 「こちらも頑張って、貴族趣味と逆スノビズムでお前の店に奪われた売り上げと客を取り返すよ。今晩は楽しかった、ありがとう。そろそろ帰るわ」

 そう言うと、背後にいたウエイターが小さなトレイにのせた伝票を持ってきた。そのトレイを受け取って立ち上がると、美穂が両手を上げて凝り固まった身体を伸ばしながら大きなあくびを一つして、ようやく帰れるといった表情でスマホをバッグの中に入れてトイレに向かって歩いて行った。はるかさんは凪人に深々と礼をして、ワインのお礼といかに料理がおいしかったかの話をし始めている。その二人を置いて入口のキャッシャーに向かうと、先ほど玄関先で話をした紳士がテーブルを囲んで家族と会話をしており、目が合うと軽く会釈をすると、飲んでいる食後酒のグラスを上に上げて挨拶を返してくれた。またいつの日かこの人と話をしてみたいが、どこかでまた出会うことはあるのだろうか?そんなことを考えながらキャッシャーで支払いを済ませて窓の外を見ると、外灯に照らされた愛車と濡れた道路が霞んで見える。依然小雨が降り続いているのだろう。
 「おまたせぇ~」
 財布に領収書とおつりをしまいこんだ時に、背後から美穂が声をかけてきた。呂律が怪しいと思ったが、はるかさんに右肩を抱かれて歩いていて、足元にチカラがなくふらついている。僕は慌てて美穂の空いている左肩を抱きかかえ、はるかさんと二人で美穂をドアまで歩かせた。ウエイター君がドアを開けてくれて、小雨の降る中濡れて滑りやすくなった階段をなんとか降り、車のリアシートに美穂を寝かせて二人車に乗り込むと、傘を持って立っている凪人がそこにいたので、いそいで運転席側のパワーウインドウを下ろした。
 「ワインありがとう、いろいろ変なことも言ったけど許してくれ。別にお前をディスる訳じゃなくて、この業界に対して不思議に思ってることを言ってみたかっただけなんだ」
 僕はそう言うと凪人は深く頷いた。
 「わかってるよ、久しぶりに話を聞いて、あの頃とあんまり変わってないなぁと思ったよ。ま、俺はずいぶん変わったのかもしれないが、すくなくともあの頃よりは進化はしてるぜ」
 凪人の言葉に頷くと、凪人は横を向いて無口になる。しばらく無言の時間が過ぎて、ようやく凪人は重い口を開いた。

 「お前、この業界に戻ってこい、絶対だぞ、いいな」
 そう言って踵を返して濡れた階段を上っていった。

  パワーウインドウを上げて、ワイパーを動かすと、フロントウィンドウについた雨粒で滲んだ光が吐き出されて、一瞬で視界が開けた。目の前には小さな外灯が目の前に見えていて、その光が濡れた路面を鈍く照らしている。エンジンをスタートさせ、クラッチを切り、シフトフィールが鈍く抵抗感があるシフトレバーを一速に入れてクラッチをゆっくり戻してゆく。エンジンの駆動が伝わった瞬間、古いプジョーはゆっくりと動き出して、鈍い光が照らす濡れた道路をゆっくりと走り去っていった。
 


 



















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