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キッシュが冷たくなるまえに 第68話  パジャマの女王様

 「30過ぎ、60過ぎの男達がロゼのワインを傾けている光景はなかなかシュールですな」
 パジャマ姿の美穂はそう言ってテーブルの上のポテチを一つかみして、バリバリを音をたたて食べ始めた。
 「いや、それはたんなる偏見でしょ?言わせてもらうけど、男がロゼを飲むのがおかしいって、単なる無知でとしか言いようがなくてさ・・・」
 「あら、私を無知扱いする気なの?ちょっと翔太いつからそんな生意気な口をきくようになった訳?ぼっとしてないで私のワイングラスを持ってきてよ」
 美穂はアゴでキッチンの方を指し示すと、お尻を半分持ち上げて若干斜めに座り直し脚を組んだ。女王様はどうやらご機嫌斜めらしい。こういう時は議論を吹っ掛けるなんて愚の骨頂で、あたりさわりのない会話でやり過ごすに限る。僕はいそいそとキッチンに行って、もうひとつワイングラスを持ってきた。     
 「おひとつどうぞ」  
 父さんが間髪入れずになみなみとロゼワインをグラスに注ぐと、ゴクゴクとグラスの半分ほど飲んでグラスをテーブルの上に置いた。ワイングラスを置いた振動で、結露で汗をかいたワインのボトルから水滴が一滴ゆっくりと流れ落ちた。
 「ミカエルで試作したリエットを分けてもらってきたんだ。リエットってだいたいが豚肉じゃん?ワインを選ぶときに赤にするか白にするか迷うんだよね・・・」
 「そういうもんなの?よくわからないけど」
 美穂はポテチの油でぎらついた指をウエットティッシュでぬぐいながら、面倒くさそうに答えた。そして手のひらを太陽に透かすように上げて、カラフルに塗られた指先のネイルを眺めている。
 「豚だから白でもいいし、ハーブを数種類にローリエも使ってる。塩と胡椒をけっこう効かせてるから赤でもいい。どっちにもいけそうならいっそロゼを合せてみようと思ってさ、それで帰りにコンビニでロゼを買ってきた訳だよ」
 「なるほど、それでロゼなのね。納得」
  「魚、肉、前菜、主菜のオールマイティーなワインなんだけど、昭和に根付いた「女性用」といったイメージが強すぎてさ、本来の良さがあまり語られてないって思うわけよ。それってもったいないよねって父さんと話をしてたんだ」
 父さんを見ると、腕を組んで頷いていて、ネイルの確認が終わったパジャマ姿の女王様は、退屈そうに指でワイングラスの縁を弄んでいる。
 「確かに、ロゼは面白い選択だと思ったよ。俺が作るときは赤を選ぶことが多いかな。ときどき白でシャルドネ。でもこれだっていう組み合わせが思い出せないな」
 父さんはそう言ってリエットを一口かじるとグラスのロゼを啜って、しばらく舌の上で味を確認すると、力強くサムアップをした。
 「試作って例のはるかちゃんに作ってもらうって言ってたやつね」
 美穂はそう言うと、気だるそうに皿の上のトーストに塗られたリエットをつまみ上げて一口かじると、残りのワインを飲み干した。
 「うん、ワインもリエットも美味しいよ。ふたつとももうちょと冷えてるともっと美味しかったと思う」
 ちょっと飲んでお腹に食べ物を入れてほっとしたのか、美穂の言動は先ほどの角が立ったツンケンしたところが消えている。僕は美穂の空いたグラスにワインを注いでボトルを置いた。
 「リエットは作ったばっかりでまだ冷やしてないんだよ、本来なら一晩おいて冷やして味がなじんだ状態で食べるのがベスト。ワインもコンビニで僕がさっき買ってきたから、ちょっとぬるくなってる」
 そう言って僕はロゼワインを一口含んでみると、たしかにもうちょっと冷えててもいいかもとは思った。冷えてないリエットが乗ったトーストは、ツナマヨのサンドイッチを開いた状態にそっくりで、いまいち美味しそうな雰囲気に欠けてしまう。バゲットか田舎風パンとピクルスがあったら雰囲気が最高なんだけどなと思いながら手に取って一口食べてみた。舌の上で豚バラの脂が溶けて、ミネラルの塩っ気と焼いた玉ねぎの甘さが口内で広がり始めると、ハーブの香りが鼻腔を抜けていく。
「ちょっと塩っ気が足りないのはまだ味がなじんでないからで、明日になればかならずいい塩梅になるよ」
 僕は自分に言い聞かせるようにつぶやいて、半分残ったリエットを口に入れロゼを一口含んでみた。リエットの塩と胡椒とハーブ、ロゼにかすかに薫るスパイスの香りが混ざり合う。
 「ロゼとの組み合わせもいい。しかしもっと試して最高のペアリングをみつけたいな・・・」
 二つの味が完全にシンクロしたとはいいがたいが、可能性は見えた。コンビニで買ったチリ産の廉価なものだが、思ったよりいい感じでほっとする。

 ヒンヤリした空気か入ってきたと思ったら、窓が半分開けられていた。住宅地だったら、こんな時間に窓を開けて音楽を聴いたりすることなんか不可能だ。パットメセニーグループの曲は、いわゆる「ジャズ」っぽくなく「都会」「夜」の雰囲気は希薄で、こんな山の麓の田んぼや畑ばっかりの土地では昼だろうと夜だろうと当たり前のようにマッチしてしまう。ロゼワインみたいに汎用性が高いなとふと思った。
 開け放たれた窓から冷たい空気が入ってくると、今度は空気と同じく形のない音楽が夜空にはじき出されて夜の静寂に吸い込まれていく。ロゼと軽いおつまみ。ヒンヤリとした初秋の空気と音楽は女王様の尖った心をクールダウンしてくれたのだろうか?グラスに残った淡い桃色の液体を飲み干した僕は瞼の重さに耐えきれず、うとうとし始めた。ちょっと肌寒いかなとは思い、タオルケットを準備するか自室に帰るか考えていたが、疲れた身体は言うこと聞かずどんどん重くなっていく。パットメセニーのギターの音が徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなると同時に僕の意識は夜風に溶けて初秋の夜空をフラフラと飛びまわった。
 
 
 
 
 
 
 


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