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キッシュが冷たくなるまえに 70話 スキップ

  時計の針は10時を越えたばかりで、キッチンのテーブルの上には、焼きあがったキッシュが2ホールどんと置いてある。ほんとは9時台前半に仕上がったのだが、荒熱を取るために放置している。キッチン中に生地が焼けたバターの甘い香りが充満していて、いつもの見慣れた生活感に満ちたキッチンが、香りの変化だけでパン屋やケーキ屋のように思える。まさかこんなに早く作業が終わるなんて思っても見なかった。早起きのせいで作業のスタート時間が早かったせいと、思い切って金属製のキッシュ用の深いタルト型をもう一つ買って作業効率を上がったのが大きい。朝っぱらからひと仕事を終えて、軽い充足感が僕を満たしている。あとはこれをミカエルに運ぶと、夜のミカエルで行われる試食会まで9時間以上自由な時間が僕にはある。窓の外は快晴で、丘陵の先には青い海が小さく見えている。積読状態の本の山から、一冊本を選びサンドイッチとお茶を買って浜辺で寝転びながら読書もいいかもしれない。
 「おはよう」
 姉の美穂がシワだらけのよれたパジャマ姿でキッチンに入ってきて、まだ眠そうな目をこすりながら大きなあくびをした。一応女性としての最低限の礼節をわきまえているようで、あくびの際に両手で口を隠すということはやっていたのでよしとしよう。さすが腐っても銀行員である。美穂は冷蔵庫から冷えたお茶のボトルをだして、グラスにお茶を注いで一気に飲み干した。
 「あんた風邪ひかなかった?ソファーでウトウトし始めたと思ったら、あっという間に寝ちゃったからさ。何度も叩き起こそうとしたんだけどビクともしないし、アンタを父さんと二人で二階まで連れて行くなんて、か弱い私には到底無理だから、気休めにタオルケットだけかけて部屋に帰ったわ」
 か弱いは余計だと思ったが、気遣いはうれしい。
 「夜更けに寒さで目が覚めたんだけど、風邪はひいてないよ。早起きしたおかげで朝から優雅に時間が使えて、コーヒーを時間をかけてゆっくり飲めたし、キッシュももう焼けてる」 
 美穂はテーブルの上のキッシュのチーズがかかっている部分を指でつつこうとし始めたので、僕は手元にあったしゃもじで彼女の手の甲をひっぱたくと、しかめっ面をして反射的に手を引っ込めて、ひっぱたかれた甲をブルブルと大きく振って、痛みを和らげている。
 「このキッシュが焼けた後の甘い香りは、しばらくキッチンに充満していて、ほんと優雅な気分にさせてくれるよね。この甘い香りを思いっきり楽しんだ後、コーヒーを入れて香ばしいコーヒーの香りが甘い香りを駆逐していくのがいいんだ」
 「それって、授業中に黒板の前で苦労して解いた数式を、完成の実感も余韻も味わえず、横から即黒板消しで数式を消される感じがするな」
 「コーヒーを一杯入れてくれないかしら?」
 「いや、もう出発しないと。11時までには納品したいんだ」
 「20分もあればミカエルに届けられるでしょ?一杯くらいいいじゃないの?」
 また指をキッシュに突っ込む素振りをしてきたので、僕は軽く舌打ちをしてコーヒーを挽く準備をし始めた。

 国道と歩道の段差を乗り越えると、ゴトゴトとサスペンションから異音が聞こえたが、聞かぬふりでミカエルの駐車場に乗り入れた。なにせ古い車だ、完璧な状態の訳はない。年寄りが膝が痛いだの、腰が痛いだの愚痴っているのと同じで、次の車検時に車検を取ろうか廃車にするか決めなければいけないと思っている。古い外車だが、パーツはまだまだ探せば社外品もあるし、修理して乗り続けることもできるのだろうが、ここは一発思い切って新しい車に乗り換えるべきなのか悩むところだ。ギアをニュートラルに入れてサイドブレーキを引く。エンジンはそのままで後部座席に置いたキッシュが入った段ボール箱を取り出すと、背後に人の気配を感じて振り向くと店主のミカさんだった。
 「翔太君おはよう。昨夜はご苦労様でした」
 「ミカさん、おはようございます。どうしたんですかこんなところで?開店準備で忙しいんじゃないですか?」
 「窓から青いプジョーが入ってきたのが見えたから、駐車場でキッシュを受け取ろうと思ってね、毎週ありがとうね」
 ミカさんは僕から段ボール箱を奪って微笑んだ。
 「昨晩あのリエットを持ち帰って、家族でワインに合わせて試食してみました。ロゼをコンビニで買って合わせて食べてみたんですけど、まあまあ良かったですよ。でも一夜明けてやっぱ赤のほうがよかったかなぁと思わなくもないんですけどね・・・」
 「まあそれは今晩の試食会で喧々諤々議論をして決めましょうよ、今晩来るんでしょ?」
 「もちろんですよ、父さんが車で送り迎えしてくれるっていってました」
 「はるかちゃんがワインを色々選んでくれるから、遠慮しないで飲んでね。私も最近ストレスが溜まってるから、ちょっと羽目を外すくらい飲んじゃおっかな?」
 「勘弁してくださいよ。それより何かおつまみになるものでも持って来ましょうか?食べたいものがあるなら、何なりと言ってください。フォアグラとか高い物はダメですが・・・」
 「そうねぇ・・・。チータラと焼き鳥があったら最高かな?」
 「チータラ?意外なチョイスですね。焼き鳥は厨房で焼きませんか?鶏モモ肉とささみとネギを買ってきて、串に打てばいいだけですよ。焼き鳥のたれも準備します」
 「あらそう?それじゃお願いしちゃおうかしら?焼き鳥が待っていると思ったら、今日もお仕事を頑張れるわ。それじゃまた夜にね」
 そう言ってミカさんは軽くスキップをしながら駐車場を出て行った。タイトなパンツに、引き締まったヒップが揺れている残像だけが僕の目に焼き付いた。
 
 
 



 
 
 
 


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