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『闇の奥』(ジョゼフ・コンラッド、光文社新訳文庫)の感想

 暴力の恐怖の中には「はっきりとした身の危険とは結びつかない純粋に抽象的な恐怖」(p159)がある。それは答えや問いが突きつけられる体験だと言うことができると思う。暴力の中で「私はこれほどのものでしかない」と言いきられると感じたり、「私に何ができるのか」と自分に問いかけられたりするような意識を抱く。暴力が私たちの思考も駆り立てるのは、それがアイデンティティの試練となるからだとも言える。
『闇の奥』のテーマはこの暴力である。舞台はアフリカ。白人による植民地支配という暴力が日常化した世界である。しかしこの地の主役は人間ではない。それは大自然の世界のもたらす「完全な野蛮さ」(p18)である。なぜそれが野蛮なのか。アフリカの荒々しい自然は、そこに人間(あるいは、白人にとっての「人間らしい自分」)が生きる事実を全く認めてはいないようだからである。つまり、世界が暴力として現われる。
 語り手「俺」(マーロウ)はこの地でクルツという男の噂を聞く。クルツは「ほかの出張所を全部合わせたよりも多くの象牙を送ってくる」(p48)男である。「俺」はクルツに直観のように惹かれているが、その理由は明らかだろう。世界の「完全な野蛮さ」の中で、クルツ自身を生きているように感じられるからである。そこに「醜悪さを償える(略)背後にある理念」(p19)を感じているのだ。
 この物語は、クルツとの出会いをホラーの形式で語る。最初に、暖炉を囲むような語りの時間。次に植民地の暴力の中でクルツという「奥」があることが意識される。現実の奥の奥に向かうような構成で人間を脅かす暴力が語られる。「自分自身を覗き込んで(略)狂ってしまった」(p164)クルツによって、「人間には正視できない残酷で不条理な神秘が立ち現われる場所」(p184)を語る物語。そうまとめることもできる。
 ただそのようなホラーは沢山ある。『闇の奥』が優れているのは、そうしたホラーとして読むときに期待外れになる側面にあると思う。たとえばこの作品は、クルツが「もう埋められたも同然だったんだ」(p154)ということを語る。また彼が何らかの才能や野心を持つものの卑小な人物だったことも示唆(しさ)する。
 このことで本作は、狂気や「神秘」を、誰でも体験し得る次元に引き寄せていると思う。
「俺にとって、クルツとは一つの声だった」(p116)というフレーズを見よう。クルツが「声」である意味はある程度の幅を持つ。まずそれはクルツの豊かな声を指す。おそらく、豊かな声は「完全な野蛮さ」に突きつけられた問いに「背後にある理念」で答えた事実を示す。次に「誰も彼も、要するに声だったんだ」(p118-119)と「俺」が言うとき、声となった他人の存在は希薄となっているのである。これはなぜか。
 それはおそらく、結局人間は一人で生きていると考えているからだろう。「長引く飢えよりは、愛する人との死別や、不名誉や、魂の地獄堕ちのほうがまだ耐えやすい。悲しいことだが本当だ。」(p105)と言う「俺」の認識である。生命の危機というリアルを前にして、他者との絆は断ち切られ、遠い声として響くばかりだ。
 この事実によって、「俺」もまた「自分自身を覗き込」み「人間には正視できない残酷で不条理な神秘が立ち現われる場所」の近傍(きんぼう)に立っている。他人と関わる日常はもう「面白くない闘い」(p173)に過ぎない。
 そこで「俺」は二つの声を聞く。一つは「冥い自負と、無慈悲な力と、怯懦(きょうだ)な心――そして烈しい絶望の表情」(p171)という孤独を生きたクルツの「『怖ろしい! 怖ろしい!』」(p191)という声である。もう一つはクルツの死後に婚約者が語る「愛していた――愛していたのです!」(p191)という声である。
 人間は一人で生きているのか。それとも、誰かと生きることができるのか。前者が圧倒的なリアルであり、後者がかすかな期待でしかない現実の手応えを示して、『闇の奥』は幕を閉じる。この「正視できない残酷」をホラーの構成に乗せつつ、むしろ頭に訴える問いかけを残す本作は、素直にかっこいい作品だと思う。

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