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《大学入学共通テスト倫理》のための中江藤樹

大学共通テストの倫理科目のために歴史的偉人・宗教家・学者を一人ずつ簡単にまとめています。中江藤樹(1608~1648)。キーワード:「藤樹書院」「考」「愛敬」「良知」「時・処・位」「日本陽明学の祖」主著『翁問答(おきなもんどう)』『大学解(だいがくげ)』『鑑草(かがみぐさ)』

これが中江藤樹

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江戸初期の儒学者です。「中江藤樹」と彼の私塾「藤樹書院」の名前の由来は、そこに藤の樹があったことに由来するそうです。つまり、「中江藤樹」は私塾の先生というニュアンスを含んだ呼び名です。

📝中江藤樹は「近江聖人」と呼ばれる人物です!

近江聖人と呼ばれて徳行一世に師範たる中江藤樹は近江國高島郡の人で、有名な学者である。人となり温厚篤實、学問といひ、品行といひ、心がけといひ、凡て萬人に卓絶して居たばかりでなく、貧しいものがあれば救つてやり、不心得のものがあれば懇ろに誡めてやるといふことに勉めたゆゑ、附近の民百姓等までこれに化せられて、一人の悪者もなかつたと傳へられて居る。(『七十偉人』(井野辺茂雄編、武田文永堂)から引用、ただしルビを略した)

これは明治末の教育本から。中江藤樹は偉人として、修身(道徳)の教科書で繰り返し語られる、二宮金次郎と並ぶ存在でした。「近江聖人と呼ばれて徳の高さが世の手本となる中江藤樹は近江国高島郡の人で、有名な学者である。人となりは温厚篤実、学問といい、品行といい、心がけといい、全てが万人に卓越していたばかりでなく、貧しいものがあれば救ってやり、言行に不心得のものがあればていねいにいさめてやるということに努めたので、付近の民百姓はこれに感化されて、一人も悪者がいなかったと伝えられている。」それは確かに聖人らしい!

📝なかでも、親孝行エピソードが有名です!

先生の使へらるべき人は今は只一人の母のみとなられました(略)奉公の身としては度々母を訪ひ慰むる事が出来ませんから(略)そこで先生は母を思ふの餘り(略)窃かに国へ帰り朝夕母に孝養を盡されました(『お伽倶楽部 学校家庭』(仙洞隠士著、盛陽堂)から引用、ただしルビは略した)

これが中江藤樹の「脱藩」。夫と死別した母に孝行するための脱藩は前代未聞のこと。この「孝行」が儒学者の鑑と称えられることも多いです。しかし、実際には複数の理由が挙げられています。①持病のぜんそく。②藤樹は父が武士をやめ帰農し祖父の跡目を継ぐ形で武士として奉公したため、武家社会が合わなかった。③真面目な儒学の秀才として俗っぽい組織に嫌気がさした。などが主なもの。「藤樹先生が奉仕すべき親はいまは母だけとなられました(略)奉公の身としては何度も母を訪問して慰められませんので(略)そこで先生は母を思う余り(略)秘かに国へ帰っていつも母に親孝行を尽くされました」

📝そんな親孝行が説いた儒学を『翁問答』で見ていきましょう!

本来の大本をよく考え詰めてみれば、わが身は父母に受け、父母の身は天地より受け、天地は太虚より受けた(略)それを失わないことを(略)孝行の綱領とする。

元来をよくおしきはめてみれば、わが身は父母にうけ、父母の身は天地にうけ、てんちは太虚にうけたる(略)太虚神明の本体をあきらかにしてうしなはざるを(略)孝行の綱領とす。
(『日本の名著 中江藤樹 熊沢蕃山』(伊東多三郎責任編集・訳、中央公論社)から引用/『日本思想体系 中江藤樹』(岩波書店)から引用、ただしルビを略した)

これが中江藤樹の「考」。儒教の考は「子が親を敬う気持ち」⇒「自分を成立させるものへの敬意」⇒「世界を成立させる秩序」に至るまではば広い概念(徳目)です。当代一の親孝行の藤樹は、その中で感謝や愛情の強さを強調しています。親を愛するように世界を愛する、そんな「考」が人間社会の原理であり、世界の原理であると最も重視しました。「太虚(たいきょ⇒世界の根源)」

📝というわけで、「孝行」が普通以上の意味で使われます!

体充 (略)説を承りますと、親を愛敬するばかりが孝行ではなく、その根本の徳を明らかにして、それぞれの生業の仕事に精を入れて勤めるのが、孝行の本当の意味でございましょうか。
 師 その通りである。

体充曰、(略)親を愛敬するばかりが孝行にてはなく、その徳をあきらかにして、それぞれのすぎはひの所作を精に入てつとむるが、かうかうの本意にて御座候や。
 師の曰、さやうにて候。
(『日本の名著 中江藤樹 熊沢蕃山』(伊東多三郎責任編集・訳、中央公論社)から引用/『日本思想体系 中江藤樹』(岩波書店)から引用、ただしルビを略し、繰り返し符号もかなに直した)

これが藤樹の「愛敬(あいけい⇒愛しうやまうこと)」。これも藤樹にとって重要な「孝行」と表裏の概念です。親と同じく、自分をあらしめる全てのものに愛と尊敬をもって向きあう心のあり方を指します。ちなみに、『翁問答』は「体充」という弟子と「師」である翁(おきな⇒老人)の問答形式で書かれた文章です。

📝「愛敬による孝行」を説く藤樹の人間観はハートフルです!

元来、われわれ人間の心の本体は安楽なものである。その証拠は、乳幼児から五、六歳までの心を見てごらんなさい。世俗の人も幼童の苦悩のない様子を見て仏であるなどといっている。

元来吾人の心の本体は安楽なるものなり。その証拠は孩提より五六歳までの心を以て見るべし。
(『日本の名著 中江藤樹 熊沢蕃山』(伊東多三郎責任編集・訳、中央公論社)から引用/『日本思想体系 中江藤樹』(岩波書店)から引用、ただしルビを略した)

生きる根本には快があり、それが(ホトケのように)他を幸せにする徳を持つように語られています。そして、子どもは親への愛情、世界への愛情も最初から持っている。そういう語りです。

📝こんな性善説の中心にあるのが「良知」&「明徳の鏡」です!

良知とは、赤子幼童の時からその親を愛敬する最初の一念を根本にして、善悪の分別是非を真実に弁え知る徳性(略)をいうのである。

良知とは赤子・孩提の時よりその親を愛敬する最初一年を根本として、善悪の分別是非を真実に弁しる徳性(略)を云。
(『日本の名著 中江藤樹 熊沢蕃山』(伊東多三郎責任編集・訳、中央公論社)から引用/『日本思想体系 中江藤樹』(岩波書店)から引用、ただしルビを略した)

これが中江藤樹の「良知」。こんな感じで、善を志向する心が全ての人の根幹にあると説いています。この「良知」は、中国明の時代の儒学者王陽明の開始した「陽明学」の最重要ワードです。「致良知(ちりょうち⇒道徳心を行動で実現すること)」というように使います。陽明学は「知行合一(ちこうごういつ⇒良知に照らして知ると行うを一致させる)」という行動主義がキーとなる学派です。

明徳を明らかにする大本は良知を鏡として、独り慎むにある。

明徳を明にする本は良知を鏡として独を慎むにあり。
(『日本の名著 中江藤樹 熊沢蕃山』(伊東多三郎責任編集・訳、中央公論社)から引用、傍点を略した/『日本思想体系 中江藤樹』(岩波書店)から引用、ただしルビを略した)

これが藤樹の「明徳の鏡」。「良知」は「明徳(人の正しいあり方)の鏡」となる。これは、自分の本心に純粋に忠実でいることが、正義の実現となるというピースフルな発想です。ちなみに、「明徳の鏡」自体は藤樹がかつて学びそして離れた「朱子学」でも使われる言葉です。

📝そして藤樹は、形式によらない一人一人の善行を求めました!

儒書に載せてある礼儀作法を少しも違えずに全部残らずとり行うのを、儒道を行なうと考えるのは大きな誤りである。(略)行なう事柄が、時・所・位に相応し適当し合致する道理がなければ、儒道の実行ではなく異端の行為である。

儒書にのする所の礼儀作法をすこしもちがへず、残所なく取おこなふを、儒道をおこなふとおもへるは大なるあやまりなり。(略)おこなふ所、時と処と位とに相応適当恰好の道理なくば、儒道をおこなふにはあらず、異端なり。
(『日本の名著 中江藤樹 熊沢蕃山』(伊東多三郎責任編集・訳、中央公論社)から引用/『日本思想体系 中江藤樹』(岩波書店)から引用、ただしルビを略した)

これが中江藤樹の「時・処・位(じ・しょ・い⇒善行を実行する際に配慮すべき、時期と場所と身分)」。引用にある通り、形式にこだわらないで、状況に応じた実行をせよと説いています。ここが「朱子学」との対立点と言えるでしょう。

📝藤樹は「日本陽明学の祖」ですが、陽明学派の影響者が強者です!

幕末の維新運動は陽明学に影響を受けている。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山が歴史上おり、革命運動(大塩平八郎 --大塩平八郎の乱 )に呈する者が多かったのは事実である。(フリー百科事典「ウィキペディア」、陽明学のページから引用)

この強者たちの説明を略しますが、日本の反体制運動には日本陽明学の影響が濃いと言えます。中江藤樹の教えはハートフルなのにナゼ? と一瞬思います。しかし、よく考えると、たった一つのハートが求めた使命を、形式にこだわらず実現しようとすることは十分に反体制的・革命的なのかもしれません。反体制運動に影響を与えた日本陽明学は、死罪でも不思議でない「脱藩」という犯罪的行為を、心のままに実行した中江藤樹から開始されました!

📝最後に、直弟子から師へのコメントをいただきます!

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現代語訳「先師の御存生のとき、不変なものは志だけで、学術は日々進んで一所に固滞しなかった」(『日本の名著 中江藤樹 熊沢蕃山』(中央公論社)「集義和書」より)。熊沢蕃山(くまざわばんざん)の言葉です。この中江藤樹のどこまでも進む強い意志が後世に影響を与えたと言えるかもしれません。少なくとも、熊沢蕃山が岡山藩の池田光正に仕えて、自然環境保護を説くという既成の政治体制を離れた政策をとるエネルギー源となったでしょう!

後は小ネタを!

名刀「大阪正宗」の刀工である井上真改。彼は中江藤樹の教えを受けていた。この最高の職人にとって、藤樹の説く陽明学の「知行合一(ちこうごういつ➡︎知ると行うは一つであるものだ)」は、作刀する自己を鍛える言葉だったにちがいない。

文芸評論家小林秀雄は、最大級の賛辞で中江藤樹を評した。「中江藤樹が学問の秀吉です。(略)まったく徒手空拳の道をいったのです。学問も実力で根底から掴み直されたのだ。それがわが国の学問の血脈なのです」と。『本居宣長』の中の記述だったはずです<(_ _)>




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